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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<死んだら動くな

「……古典主義時代の自然は、「植物」の諸価値にたいして特権をあたえてきた。つまり、そのすべての形象が幹から種子へ、根から果実へと展開されている植物は、タブローとしての思考にとって、秘密が気前よくあばきだされている透明で純粋な対象を形成するものだったのである。特徴と構造が、深層において《生命》にむかい──すなわち限りなく遠くにあるが本質的構成要素をなすあの至上の消点にむかい──段を重ねていくようになる瞬間から、特権的形象となるのは、その隠された骨組み、そのおおわれた諸器官、かくもおおくの不可視的な諸機能、すべての基礎にあってそれを生命のうちに維持しているあの彼方の力、そうしたものを一身にそなえる「動物」にほかならない。もしも生物が諸存在のひとつの分類階級であるとすれば、草はいかなるものよりもみごとに、その清澄な本質を言表するであろう。だが生物が《生命》の顕現であるとすれば、動物は生命の謎が何かをよりよく認めさせてくれるにちがいない。動物が示してくれるのは、諸特徴の静止したイメージというよりは、呼吸や食事をつうじての無機物から有機物へのたえざる移行、そして死の力による、諸機能の大建築から生命のない灰への反対方向の変換である。……植物は、運動と不動性、知覚をもつものともたぬものとの境に君臨していた。だが動物は、生と死の境にその身を持するのである。死は、あらゆる方角から動物をとりまいている。そればかりではない、内部からも動物を脅かすのだ。なぜなら、有機体のみが死ぬことができるからであって、生きるものを死が不意に襲うのは、まさに生命の奥底からだからである。十八世紀の末ごろ、動物性が両義的諸価値をおのがものとするにいたったのは、たぶんこうしたことに由来する。獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによってはじめて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれを死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえぬということ、それこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言説を涸渇させることによって遂行し、近代はそのため長いこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強付会のそしりを免れぬかもしれないが、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』(G・キュヴィエ)のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ。ともかくも、われわれの考古学の暦のうえで、この二つの作品はおなじ時代に属するものなのだ。」
(フーコー『言葉と物』)
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