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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<戦争と無意識

「処女作断章1における「終戦の二日後」の「上海の郊外」から『ねじまき鳥クロニクル』の「ノモンハン事件」に至るまで、村上春樹の小説に夥しい戦争とそれにまつわる人物・事柄への言及は、この作家が子供の頃からしばしば戦争映画を観たという事情(「遥か暗闇を離れて」『映画をめぐる冒険』「まえがき」)を別にすれば、ともすれば失い勝ちな記憶を引き留める戦争の力と、有無を言わせず体験を共有させる戦争の性格に由来していると思われる。たとえ人がそこにどのように異なる意味を持ち込もうと、或いは戦争が各人に異なる体験と異なる時間の分節を与えるとしても、戦争という事実とその日付は否応なく人を「結びつける」からである。
 『青い花』第八章のノヴァーリスにならって言えば、「戦争のときは原水が動く」。個々の思惑と打算を超えた場所で、眠り込んでいたはずの記憶が蘇生し、「死者」が動き始める。そのことは、私達の記憶にも新しい「旧ユーゴスラヴィア」の様々な戦争が立証してみせた凄絶な事実である。
 ミーシャ・グレニーの『ユーゴスラヴィアの崩壊』は、たとえどの人物の愚かしい政治的野心がこの戦争を仕掛けたにしろ、セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒が三つ巴になって行なわれた想像を絶する殺戮が、「歴史」の闇の底から這い出してきた死者たちによる虐殺であったと教えている。それは同時に、「無意識」自体を放置した生半可な平時の「反省」の無効性と、「歴史」を修復することの途方もない困難さについても語っている。
 村上春樹が、外国文学の翻訳書出版の第三作目にジョン・アーヴィングの『熊を放つ』を選んだのは偶然ではない。この長篇小説は、象を初めとする動物をウィーンの動物園から解放しようとする一青年の企みを、第二次大戦中のナチス協力者たるユーゴのファシスト集団「ウスタシ」(セルビア人にとっては「クロアチア人」の代名詞)とセルビア民族主義の過激派「チェトニク」との抗争に重ね合わせた作品だからである。
 もとより戦後生まれの村上春樹は自らの体験としては戦争の何たるかを知らない。私はこの作家にとっての「七〇年安保」が「戦争」に匹敵する出来事だったと考えるが、そういう指摘もやはり戦後に生を享けた人間のする妄言と受け取られてもよい。しかし一つの時代が、個々人の思量の限界点で或る人間の思考の型と人生に向き合う姿勢を決定し、それが彼の「友人」達を死に追いやったとすれば、「七〇年安保」という一連の非日常的事件を「大東亜戦争」や「六〇年安保」と等しなみに見ることはあながち誤りとは言えないはずである。そういう形で「時代」に触れることなしに、時を隔てた「歴史」の息づかいは感得できないからである。」
(井上義夫『村上春樹と日本の「記憶」』)
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