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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<狂気と憧憬

「国家論には、(1)国家を共同体としてとらえるもの、(2)利益集団としてとらえるもの、(3)暴力装置としてとらえるものという三つのパラダイムがある。(1)の代表者はアリストテレス、(2)の代表者がホッブズやベンタム、(3)の代表者がエンゲルスやアナキストたちということになる。
 AがBを愛し、BがAを愛すれば、そこに「愛の共同体」が成立する。同様にして、(1)アリストテレスによれば、人間は本性的に他者との結合を必要としており、AはBを本性的に求め、BはAを本性的に求める。こうして「本性の共同体」が生れるが、その最大のものが国家(彼においてはポリス)だとされる。(2)ホッブズにおいては、人間は本性的に反社会的なものであり(Homo homini lupus est.)、AがBから利益を得、BがAから利益を得る時に結合が生ずる。元来バラバラに生きていた人々が、「安全」という利益のために結合するのが、すなわち国家である、という。(3)AがBを支配し、命令に違反すれば処罰する場合、その制裁が極めて実効的で、Bにほとんど抵抗が不可能になった状態では、AB間に愛情も結合欲求も利害の共通性もない場合にも結合が生ずる。こういう関係が階級という社会集団間で成立しているのが、エンゲルスのいう国家である。
 (4)しかし以上の三つの他に、もう一つの結合の形態があるのではないか。AB間に愛情も結合欲求も利害の共通性も、そして支配服従関係もないにもかかわらず、AもBも共通にXという観念の支配を受けているという形態である。ABは、カインとアベルのように憎み合っている兄弟で、本当は家を出て都会に移住したいのだが、ともに亡き父の遺訓に従って協力して家を守っている、というような場合がそれである。
 フロイトは群衆(Masse)を、共通の虚焦点に各個人の超自我が投射した状態として描いた。彼によれば、幼児(差し当たって男子)にとって父親は、彼の幼児性欲を抑圧する超越的な権威、理念的な自我であり、こうして幼児体験の中に植え付けられた権威の原像が超自我として彼の一生を支配する。群衆の中にある時、彼はその超自我を群衆指導者に投射し、その命令に幼児のような従順さで服従する。この群衆の指導者が、ヒトラーとか毛沢東のような具体的個人である場合、その支配力は強力であるが、それが死せる父、祖先、神武天皇、クリスト、神、そして国家などに代置されたときにも、支配力は全面的には失われない、という。」
(長尾龍一『リヴァイアサン──近代国家の思想と歴史』)
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