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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: セイレーンの声

「もっと仔細に見た場合、この現実たる行為とシニフィアンとの合致──さらに言えば同語反復──をどう考えるべきだろうか。我々はすでに、声の同語反復において、つまり、主体の透明な自己現前としての声の、この自己現前の基盤を崩す不透明な染みとしての声との合致の同語反復〔同じ言葉が無限に反復されると意味作用の引き去られた声の物質的状態が、一種の催眠力を帯びて出来する。デリダのいうような意味の充溢と自己現前の担い手ではなく、意味作用の物質的残滓としての、声〕において、同様のことに遭遇したのではないか。そうだとすれば、もしかすると、鍵は意味の蝕を表す過剰な声の身分によって与えられるかもしれない。この不可思議な声に表現を与えるためには、音楽の歴史をざっと見ておけばいいだろう──それは、声の方が文字表記よりも上だというデリダ的な西洋の形而上学史に対抗する類の歴史として読める。そこで何度も何度も遭遇するのは、確立した〈秩序〉を脅かし、そのために掌握されて、話されかつ書かれる言葉の合理的な分節に従属し、エクリチュールに固定されなければならない声である。
 ラカンは、ここにひそむ危険を名指すために、ジュイ-サンス〔享楽 jouissance/私は意味を聞く J'ouis sens.〕、意味における享楽という新語を造語した──歌うような声が「おかしくなる」瞬間、意味におろしていた錨がはずれ、消費する自己享楽に加速する。この消費する自己享楽における意味の蝕の二つの模範的な例は、もちろん、(女声の)オペラのアリアのクライマックスと、神秘体験である。この過剰を支配し規制しようとする努力は、皇帝みずからが音楽を支配した古代中国から、アメリカの保守的道徳の多数派とソ連の共産主義的厳格さがともに抱いたエルヴィス・プレスリーに対する恐怖まで流れている。プラトンは『国家』において、音楽をそれが〈語〉の秩序にきちんと従属していることを条件にしてのみ許容した。音楽は〈自然〉と〈文化〉のまさに交差点に位置している。それは、言わば、語の意味よりもはるかに直接的に、「現実において」我々をとらえるのだ。そのために、音楽は最も強力な教育・訓練の武器として使えるが、それが足場を失い、享楽という自己推進的な悪循環にとらわれるようになったとたん、それは〈国家〉だけでなく社会そのものの根底を崩すことがある。中世においては、教会の権力が同じジレンマに直面した。福音の最高の権威(歴代の法王)が、音楽の規制という一見すると瑣末な問題(多声楽の問題、「悪魔の四度」など)にどれほどのエネルギーと配慮を注ぎ込んだかを見ると目を見張るものがある。
 〈声〉の過剰に対する〈権力〉の両義的な姿勢を具現する人物は、もちろん、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンである。彼女は神秘的な享楽を音楽に入れ、それでいつも破門寸前の状態だった。ただ彼女は権力の階層の最高のところに組み込まれており、皇帝に助言するなどしていた。同じマトリックスは、やはりフランス革命にもはたらいていた。革命のイデオローグたちは、カストラートの声に耳を傾けるという退廃した貴族的快楽への耽溺に対抗して、男性的話言葉の支配のもとにある「正常な」性による違いを確認しようとした。この長期にわたる闘いのエピソードの最近の例の一つは、悪名の高い、スターリンみずからが扇動した、ショスタコーヴィッチの『カテリーナ・イズマイロヴァ』に対するソ連の反対運動である。かなり奇妙なことだが、主な告発理由の一つが、このオペラがはっきり聞き取れない叫びでいっぱいだということがある……。だから問題はここでも同じだ。声が、信頼できる男性の〈言葉〉を「女々しくする」消費する自己享楽に滑り込むのを、我々はどう防ぐかということだ。」
(スラヴォイ・ジジェク『仮想化しきれない残余』)
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