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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<擬似超越

「中沢新一は、ユダヤ=一神教と批判してみせた「他者」性を、自身の文化人類学もどきや、共産主義やレーニン礼賛などでは、実はみずから活用しています。要は「他者」とのチャンネルを“使える”者が必要であり社会はそれに従うべきという主張。これが彼のグルイズムの正体。
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「他者」性とは、第二次大戦後に西洋思想がユダヤ思想から引き出した、転回のための最重要概念。中沢は『三万年の死の教え』で、ラカンを引いて、七〇年代には、存在いっさいが言語であるという構造主義が席巻していたというが、これは嘘。ラカンの思想には、明確に「他者」性が組み込まれている。
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中沢は、構造主義の「他者」性をあえてスルーした上で、『三万年の死の教え』でこう続ける。マルクスの唯物論にこそ「他者」性があると自分は感じた、と。このトリックを展開したのが『はじまりのレーニン』。
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その後、中沢は、未開に見える文化の中に、荒々しく野性的で創造的な「他者」性が宿っているという通俗的な論を繰り広げるが、それってまさに構造主義〜ポスト構造主義のラインの反復にすぎない。いっぽうで彼は、野生と共産主義を「他者」においてドッキングさせていく。
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構造主義〜ポスト構造主義では、構造的かつ倫理的に不可視の領域とされていた「他者」性を、中沢は実存的なものとして扱うようになる。つまり、オカルトぎりぎり。
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中沢『三万年の死の教え』では、神智学のブラバツキー夫人が霊能によって交信したと主張するヒマラヤ上空の霊的存在について、「霊による通信に成功した」と断定。同書は、同様に、ニンマ派の埋蔵教発掘の主張を事実として断定。両方ともアウト!なのだが、この二つの共通性に着目すべきだろう。
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神智学はチベット密教やヨガをベースとした、オリエンタリズム(E・サイード)的オカルティズムの代表。その教義は、世界を目に見える物理的世界だけでなく、霊的世界を上層に置く階層であると説く。霊的世界はアルトラル界だのコーザル界だのに分かれる。これは「他者」の実存化、矮小な内部化だ。
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つまり、ここで中沢が開陳しているのは、人間に触れることができない外部にあるはずの「他者」性に、ある種のひとびとは触れうる、ということなのだ。ある種のひとびととは、ある種の能力を修行によって開発したひとびとである。彼らにおいて「他者」の無限の能力はいくらでも使用可能なのだ!、と。
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ここにおいて中沢新一は「他者」を内化した。外部を内部にすり替えてしまったのである。言うなれば、これが根本的な問題。」
(nos/unspiritualized「Twitter拾遺」)
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