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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ぼくはだれだ2

「ぼくの生涯のうちの、自分が満足できるようなものが何一つ書けなかった五カ月、そしてたとえそれを償うべき義務をすべての人びとが負うているにもせよ、いかなる力も償いえないその五カ月がすぎて、ぼくはようやくもう一度自分に話しかけてみようと思いついた。そして実際に自分自身に問いかけるたびに、書くということに関しては、そのうちきっと何かを自分から打ちだすことができるといつも答えてきた。というのは、実は五カ月前からぼくは、夏の最中に火を点けられると見物人が瞬きするよりも早く灰になってしまうのが運命のように見える、あの藁の山になっているからだ。もしそうなるならいいんだがなあ! 実際にそういうことは何回も起こるだろう。なぜなら、ぼくはこの不幸な時期をさえ残念だとは思っていないからだ。ぼくの現状は不幸ではない。だからといって幸福でもない。無関心でもない。衰弱でもない。疲労でもない。何か別の関心でもない。ではいったい何だ? それがぼくに分からないということは、ぼくが書けないということと関係があるらしい。そして書けない理由は分からないが、その実情は理解できるように思う。つまり、ぼくの心に浮かんでくるすべてのものが、ぼくの根から浮かんでくるのではなく、どこかせいぜいその中程のところから浮かんでくるのだ。そこで、だれでもいいから試みにこれらのものを掴まえてみるといい。茎の中途からはじめて成長しだす草を掴まえ、その草で身を支えてみたらいい。むろんそういう芸当のできる人たちもいるだろう。例えば日本の曲芸師がそうだ。彼らは梯子を地面に立てるのでなく、なかば仰向けに寝て両足を上げている相棒の足の裏の上に立て、しかもそれを壁に立て掛けずに宙にただ棒立ちにさせたまま、その梯子をのぼってゆく。ぼくにはそんなことはできない、ぼくの梯子には意のままになるそういう足の裏さえないということはさておくとしても。もちろんそれだけがすべてではないし、ぼくを語るように仕向けるのはそういう質問ではない。だが、毎日少なくとも一行は自分自身にふり向けるようにすべきだ。ちょうど今、望遠鏡が彗星に向けられているように。そうすれば、その文章におびきよせられて、そのうちぼくという人間がその文章の前に姿を現わすだろう。例えば去年のクリスマスのときがそうだった。あのときぼくは、ほとんど自分を統御することができるところにまで達した。そして本当に自分の梯子の最後の段にのっているように思えた。しかし梯子は、地面の上に、しかも壁に立て掛けられて微動だにせず立っていた。それはなんという地面、なんという壁だったことか。だがしかし、その梯子は倒れなかった。それほど強くぼくの足は梯子を地面に押しつけていたのだ。そのため梯子の上の端が壁をずり上がった。」
(フランツ・カフカ『日記(一九一〇年)』)
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