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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<命取りの二者択一

「若い頃の短篇小説の調子や内容からわれわれに推測できることは、彼が、自分の想像力の威力を意識するあらゆる青年と同様、自己解放の夢にかたちを与え、また恐らくは有名になるため(彼が印刷された自分の名前を初めて見てそれと逆のことを言う〔「この名前はやがて忘れなければならないだろう」〕のは、彼の謙虚さの現われではなく、むしろおさえようのない野心の存在を確証するものであって、他ならぬその過剰が野心を抑圧されるはめに追いやるのだ)、もの好きと遊び半分とから書いているということである。なるほど、文学はすでに彼の生活のなかで大きな場所を占めているとはいえ、彼はまだ文学にとり憑かれているとはいえず、そうなるのは、『判決』という、彼の肉と血からこしらえられ、「まるで汚物と粘液とにまみれた本当の出産のように」彼から出てきた物語の驚天動地の体験が、どのような状態になって初めて書く行為が解放となるかをついに彼に教えてからのことにすぎない。そのとき以来、自分が最初の長篇小説〔『失踪者(アメリカ)』〕にとりかかっていたときでさえ、そしてとりわけそのとき、「文学の恥ずかしいような浅瀬に」とどまっていたことを納得した彼は、もはや夢みた解放の瞬間を紙の上につくりだすためではなく、正真正銘の文学の信者として、啓示された真の文学に身も心も捧げつつ、文字通り自分自身を再生させるために書くのである。
 この変容のおかげで、書くことが救済の力を本当に獲得しているのだが、カフカは『判決』の誕生をまのあたりにした記念すべき夜の翌日、自分のなかにまだ高揚感の余韻の残るまま、その変容のことを描写している。「この短篇物語──『判決』──を、ぼくは二十二日から二十三日にかけての夜、晩の十時から朝の六時にかけて一気に書きあげた。……ぼくの物凄い疲労と喜び、話が眼前に展開した様子は、まるで水路を割って前進するようだった。この夜のうちに、ぼくは何度も背中に全身の重みを感じた。すべてのことが言われうるのだ、どんな突飛なものであろうと、すべての着想のために大きな火が待ちうけていて、その火のなかでそれらの着想が消滅し、蘇生するのだ」。地上の一切の重みがなくなった恍惚境の作者は、聖クリストフがキリストを背負うように、自分の身体を背に負う気がする。そしてキリストそのひとと同じように、彼は波の上を歩く、物語が彼のためにこのような奇蹟を行ったのだ、超自然の恩寵が彼に降ったのであり、これなしにこしらえるものは、今後何ももう彼を満足させることができないだろう。「ぼくの確信がこれで確かになった、ぼくが長篇小説〔『失踪者(アメリカ)』〕を書いているとき、文学の恥ずかしいような浅瀬にいるのだ。ただただこういう風にしてのみ書くことができるのだ、このような持続性をもって、このように完璧に肉体と魂から解放されてのみ」〔『日記』、一九一二年九月二十三日〕。実際カフカは今後、「自我」が自らの限界をうちこわし、言葉が事物に火をつけ破壊し再生させるこのような啓示の状態でしか、ものを書こうとはしなくなるだろう。というのも、彼は今では自己解放が可能であることを知っているからだ、とはいえそのために文学という神に恒常的で排他的な礼拝をささげることによって──それは実は無情な礼拝であって、他の一切の関心だけでなく、彼自身の生活やそれに係わっている人たちへの関心をも犠牲に供することを要求する──、積極的に解放を準備するという条件で。今や問題は書くか生きるかであり、神秘家のように、自分のなかで死んで書くことである、あるいは生きつつ死んだ状態で生きること、時間の単調な流れのなかを大多数の人たちと同じように彷徨しながら。永遠を得るため、生きることなく書くか、書くことなく生きただ通りすぎるだけであきらめるか、これが彼をしめつける万力であり、彼は最後までこれにしめつけられつづけるだろう、自ら閉じこもったこの命とりの二者択一のゆえに、たいていの場合未熟なまま中断された自分の創作を見るにつけ、作品と生活をともに失ったことに絶望するであろうときでさえ。」
(マルト・ロベール『カフカのように孤独に』)
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