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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<冷血のユーモア

「根なし草のゆえに、形式的で文章語的な用途に限定された、幅の広さも熱っぽさもない彼の国語は、コミュニケーションのためにさけるわずかな余裕しかなく、これまた「大地と大気と律法」を欠いているのであって、血を欠き、その貧血にほどこす薬がない、なぜなら、民衆の言語という、恐らくそのおかげで彼の国語がよみがえることのできるであろう唯一の源泉が、まさに彼の国語のとうてい接近できないものであるから。……
 法的には、カフカはたしかにオーストリア帝国同胞市民とともに、権利の完全な平等を享受している、たとえ彼らが、双頭の鷲の集める多数派ドイツ人あるいは多様な少数派民族のいずれに属していようと。だから彼は、彼らと同じように、何世紀もの間二重君主国の統合を保障している公用語──いわゆる官庁ドイツ語──を使いこなしている。日常生活では、向う側の人たちの無言の非難によって深くなる彼の罪責感が、ドイツ語を自分の所有物として扱うことをさまたげるのに反し、公的な生活では誰もこの「帝国」の官製国語を彼が使うことに異議を唱えることはできない、というのも、まずこの国語は普遍的なものであり、第二に彼の他のところではうさんくさいアイデンティティが、ここでは例外的に正式に証明されるからだ。書類の上ではオーストリア国民たるカフカは、戸籍によって、同じ国のどの所属民以上でも以下でもなくドイツ語を所有しているのであり、この役人用の非個人的道具が彼に存分に使いこなせる唯一のものである以上、彼が甘んじざるをえない言語喪失に似て、これまた非個人的で作者不明の文学をこしらえるため、この道具をわがものにする権利があるわけである。
 こうして官庁ドイツ語は、彼の精神にあれほど重くのしかかる三重の不可能を、消滅させるのではなく迂回することを可能にするという意味で、彼の天才をためす最大の機会となる。いいかえれば、ゲーテとシラーの跡をたどるかわりに、自分の才能がその権利を与えてくれることを努めて信じつつ、カフカはただ単純に──いかにも《単純に》ということが、どれほどの怨念と辛辣なアイロニーとに支えられていることか──、彼に書類を渡すつまらないお役人風に(もっとも彼自身も意に反してその役人なのだが)書くのである。爾来、若いころそこから両手いっぱい汲み出すことが可能だと信じていた国語の詩的源泉から離れて、実に遠くに離れて、法廷記録を、説明書を、報告書を、公正証書を、万能の役人が被治者に見せるのと同じつめたい無関心さと非人間さと、いうまでもなく無限にそれ以上のユーモアをもって彼は綴るのだ。
 それゆえ今後カフカが、彼自身の夢の生活から直接出てくる言葉=映像を組織する仕事を託するのは、この中立性と論理とで武装した役人である。しかし、だからといって夢を見る人がその特権を放棄するわけではなく、逆に夢の映像は、それを称揚するのにもっともふさわしくない官庁的な文章に組みこまれざるをえなくなることによって、その見せかけの服従に、それ以上のダイナミズムと真実をつけ加える。そのとき映像は、理性の働きがすすんで呪縛されるほどの密度さえ得るし、他方その合理的な組織化のおかげで、さもなければ現実にしか見つからないような重みを、奔放このうえない幻想のなかでさえ獲得するのだ。カフカが、もっとも大胆な想像力にさえ融和させられるとは思えないような二つの相反する要素を一緒に混ぜることによって、書くことの不可能な状態からもぎとってくる物語にあっては、お役所的な論証法が、いたるところで主観性の魔法と結びついている。ひとはそこに、数学的な正確さでもって記号化された夢が、世界のなかへ侵入しこの世界を逆上させるのを目のあたりにするのであり、情容赦なく論駁されたメデューサの頭は、このうえなく弛緩した現実とともに、暗喩と魅惑の場へ変貌するのだ。」
(マルト・ロベール『カフカのように孤独に』)
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