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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<奇怪なréalisme2

「……事実、シュールレアリストたちとは反対に、もっとも、しばしば彼らに比較され、彼らの方も彼を好んでひきあいに出すのだが、カフカは、夢のなかで、非合理なものの、抑制のない自由に達するため、現実から逃避しようとは努めない。夢を自分の努力の目的としないどころか──彼はすでに夢のなかにいて生きているのであり、それこそが彼に真に彼たりうる唯一の場所であるのだ──彼はつねに現実という、彼にとってまさしく不可能と禁忌の領域を追いかけるのである。彼は現実を夢に見る、まるで魔法の障害によって彼から隔てられているものを夢に見るように、そして彼は、この夢に(彼は夢を、ロマン主義的な魂がそこに陶酔したがるていの、律法も国境もない国としてではなく、フロイトが分析することのできた精密な夢想と見做すのだが)、住処をもつことをおぞましくも禁止されるわけと、もし可能ならそれを無効にする手段を自分に明らかにしてくれることを求めるのだ。
 ここから明らかな矛盾が生れ、それがつねに批評に活発な刺激を与えてきた。即ちカフカの登場人物たちはきまって夢の幻覚の、裏返しの世界に住んでいるにもかかわらず、彼の物語には夢が全く出てこないことであって(逆に『日記』や手帳にはそれがふんだんに見つかる)、これは彼が決してくずすことのない原則であり、いくつかの例外はあるものの、それもまさにこの規則を強化するためになされたものだ、なぜなら、それらは出版されなかったテキストのなかか、小説中の細心に削除された章句にしか存在しないからだ。『変身』は「胸苦しい夢から覚めて」始まるが、この物語を恐らく始動させた夢はしたがって終っており、夢を思い出させる事柄はもはや何も起らない。ヨーゼフ・Kは或る朝、目覚めたばかりのときに逮捕される、そしてそこから始まって彼の身に起るものが、恐らくその夜の悪夢の続きであるとすれば、彼は正真正銘覚醒状態で、かつ白昼にそれを生きるのだ。もともと〔最初の草稿で〕彼が訴訟中にみた唯一の夢を──誰かが墓石の上に彼の名前をゆっくりと刻みこんでゆくのを彼は見ていたのだ──、カフカはこの小説から抜いてしまい、別箇の短篇集へ入れて刊行している、ちょうど、覚醒時の深い夢想状態に陥ったヨーゼフ・Kが、彼の救済者となった画家のティトレリが彼の上に「あふれるような光を」ふりそそがせるのを見る、という一節を抹消したのと全く同じように。夢と現実との関係については『審判』の別の削除箇所から、さらに注目すべき細部が分かってくる──多分分かりすぎるのであり、そのためきっとこの箇所が使われなくなったのであろう。「誰かがぼくに言った──誰だったかもう覚えていませんが──、朝、目を醒まして、すべてのものが少なくとも全体としては少しも動かずに前夜あった通りの場所にあるのを見ると、やっぱり不思議な気がすると。眠って夢をみているときは、なんと言っても目覚めている人間の状態とは全く違った状態にあるわけで、だからまさにその男が言ったとおり、目を開くとともにそこにあるすべてを前夜と同じ場所にとらえるためには、無限の精神の覚醒、驚くべき勘のよさが必要とされます。それゆえ彼の説明によれば、目覚めの瞬間は一日のうちもっとも危険な瞬間であり、自分のいた場所からどこかへ連れ去られないで、ひとたびこの瞬間を切りぬけたなら、残りの一日をもはや心配しないでいられるというものです」。
 ヨーゼフ・Kに、その逮捕の真の事情をきわめて正確に教えるこの神秘的な誰か──どうやらカフカその人であって、自分のストーリーのなかに一度だけ許されざる登場をするものの、自粛せざるをえなくなる──、この闖入者は、いまいましくも訴訟の始まりを助ける特別な空間と時機とを、われわれに明らかにするというメリットを少なくとももっている。それは夢と覚醒との中間地帯であって、一日のうちでもっとも厄介な瞬間であり、夢から充分にさめやらず、結局のところどちらの状態にもうまく適応できない主人公は、そこから逃れようと試みるけれどうまくゆかない(夜中の呼鈴の音にあわただしく目覚めさせられる「田舎医者」もまた、この呪われた中間地帯の捕われ人であって、この世のものならぬ馬につながれたこの世の馬車が、この世界から逃亡することも現実へ戻ることも彼に許さないのである)。
 夢そのものとしては物語のなかに現われず、そのくせもろもろの出来事を密かにかき乱すそのやり方は極めて活発な、カフカにおける夢には、それゆえその夢という名称からひとが出会えるものとつねに大なり小なり期待するていの、魅惑的な幻想性とは無縁である。夢がそれと認識されるのは、その機能の特殊な様式が覚醒世界の様式と重なりあって、事物の流れをただちにゆがませるたぐいの、不調和やどこからくるのかよく分からない不安や、突飛な異変をたえずひき起すことによってにすぎない。しょっちゅう夢を見、いやでも夢本来の闇に慣れ親しんだひとだけがもつことのできるこの現象の理解力をもつカフカは、充分に承知の上で、夢から、夢の営為にあずかるいくつかの心的機構だけをとりあげ、それらを彼の物語の構成に働きかけさせて、創作した支離滅裂この上ない夢のなかでさえ、夢と現実との間の慣習的な境界がつねに不分明となるようにする。同一視、投影、転移、圧縮といった、まるで彼がフロイトを読んでいたかのようにというだけでなく──周知のように彼はフロイトを読んでいたが──、まるで彼自身で見つけ出したかのように知っているこれらの機構のちからをかりて、彼は自分の書物に、ふつう彼らをよく見ているつもりのひとが予期する風には決して見えない人物たち、ふつうのひとが彼らの状況から予期する事柄を決して喋らず行いもしない人物たちを、たくさん登場させるのだ。ここで物語の役者たちがどんな人間なのか知ることは不可能である。というのも、カフカはある場合には、ただ一人の登場人物に属するものでありながら、その本人の意識的、無意識的願望と相容れない部分としてずっと前から実は排除されていたため、本人にとって無縁でありつづけるような要素を、たくさんの人物にふりわけるからだ。またある場合には、逆に同一人物のなかへ等質でない諸要素を圧縮するが、等質でないとは認識されていないため、これらの要素は主人公に自分が単一であるという間違った感情をもたせるのである。夢の技法を、それのもつ最も生産的な面で模倣しつつ、彼はただひとつのものであるはずのものを分離させ、分離しているはずものを混合し、見えないものを外在化し、外のものを内在化する──こういったことを行う唯一の目的は、彼の精神生活の無秩序状態にあってより明晰に見ることであり、神経症が彼に浪費させるエネルギーの膨大な部分を回収しつつ、自分の精神生活をたてなおしてゆくことである。しかし彼がことさら夢に求めるものが、自分の力をよりよく利用するために何が彼に欠けているか教えることであるとはいえ、彼はまた夢から、自分の芸術のために審美的な測りしれない利点をひきだすこともやめない。というのは、夢の文法の基本的原則に従うことによって、これはひっきょう因果関係や所属関係を、単なる隣接のつながりに置きかえるものなのであるが、彼は「深遠な」小説ならなくてすませられるとは考えないところの心理的説明や内的モノローグをなくすることができるのだ。主人公の性格や行動について微妙な事柄を語るかわりに、彼は主人公を生きさせ行動させるのである、彼の内なる未知の深みにあって彼の前に見知らぬ人間の形姿をとって具体化する諸々の願望に対し、あるときは越えがたい距離をおかせ、あるときは心配になるほど接近させて。そして、実は夢のもっとも注目すべき特性のひとつであるところの、この語る代りに映像を用いる方法のおかげで、彼はごく自然に、心理学の月並みな利用と結びついた衒学ぶりや陳腐さから、自分の物語を守るのである。」
(マルト・ロベール『カフカのように孤独に』)
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