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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<透明な深淵

「借り物の国語に対して距離をとりつづける結果、カフカはこの国語に、新語使用や擬古表現、凝りすぎた言いまわし、統辞法上の変革といったものを(これらによって、現代作家、とりわけドイツ人作家が革新する権利があると考えるのだが)導入することをひかえる。彼は用語が、その年代や社会的文学的慣例、その生れた土地などを示す一切の指標をはぎとられて、その両義性を自由に発揮する言語の一領域に閉じこもる。そこから、彼の散文の、透明かつ底の測りがたい特徴が生れるのだ。つまり何世紀もの使用によって閉じこめられてきたその外皮から、解き放たれ、その核までむき出しにされた語が、ここでは不透明で二重の語義をおのずから明らかにし、この語義が最初の語義に生気を与えるのである。
 彼のキーワード──審判〔訴訟〕、城、紳士たち、犬、巣穴等々──は実はそういうものであって、それらはカフカの物語に、その躍動を始動させ維持するのに必要な力動性を与えている。文法でいう絶対的な意味で、つまり補語も限定詞もなしにつねに用いられる、これらのたいていの場合二重の意味あいをもつ語は、物語の筋を同時に二つの方向に、一方では眼に見える方向へ、他方では多少とも韜晦された方向へ運ぶのだが、この両者のあいだにあってこれらの語はつねに機能せざるをえないのだ(このような深度で解されるとき、言葉の遊びが真に物語のバネとなる、しかも誰にもこのバネが機能するのが見えないだけに一層強力なバネなのである)。『審判』という長篇小説の直接の由来は、Prozess という、ドイツ語では訴訟行為と、進行の意も含めた病気の経過とを同時に表わす語にあるが、この二つの語義は、ふつう混同されることはむろんないものの、ここでは一緒に、極めて緊密な論理とともに展開されるため、誰も分離させようとは考えない。つまりヨーゼフ・Kの事例は、同時に司法と病理の両方に属している(「あなたは訴訟に関わってらっしゃるんでしょう?」と、ある登場人物がKに向って、Kの「胸の上を指の背で軽く」叩きながら言う、つまり患者を聴診する医者に典型的な仕草をしながら)。しかもこの二つの意味のどちらも明確な対象をとらぬため、Kが有罪なのか病気なのか、前者の場合ならどんな犯罪ないし違法行為のゆえなのか、後者の場合なら、彼の病気は肉体的、精神的にどういう性質のものなのか、全く知ることができない。有罪なのは、彼の身体ないし精神のどこかが悪いからだし、病気なら、何か知らないが償いがたい過誤の罰としてなのだ──病気という罪があるのか、有罪という病気なのか、これが、ヨーゼフ・Kの冒険を通じて、《Prozess》という語自体に向けられる重大な設問であって、それは二重の語義をもちながら、にもかかわらず絶対的な語であり、そこでは、自然の摂理に寄せる、一切の検証や一切の知識をまぬがれた昔ながらの信仰が、われわれのもっとも恐るべき偏見のひとつを掟としているのである。
 カフカの物語の基本的な両義性は、いうまでもなく、根本的な語のもつ縮約の能力と、そのために、そういう語の単純な思想という外見に隠されてしまう二重性とに由来する[*51]。例えば《城》という言葉以上に罪のないものがあるだろうか? そして実はこれ以上に含むところの多いものがあるだろうか、もしこの語のまわりに大昔から織りなされているその広大なイメージの網の目──富、古さ、権力、貴族性、特権──のことを考えるなら? 絶対権力と古めかしい慣習との記憶に、奢侈と美とが結びつくこの威圧的な建造物に、ドイツ語の Schloss は、さらにある重要な、われわれの語〔フランス語の chateau〕からはもはやうかがうことのできない特徴をつけ加え、単に建物だけでなく、閉ざされた城壁内におけるその配置を想起させるのであり(Schloss はまた《錠》を意味し、囲いという観念を表わすたくさんの動詞を産み出している)、その結果、このイメージに含まれるあらゆる倫理的、社会的、精神的、審美的な特性が、内側から守られていて文字通り壁に閉じこめられていた財宝のように、一気に現われるのである。それゆえ、われわれの夢や望みのなかの古くさい事物のちからを証明するこのような数多くの意味を前にすれば、カフカはこの語から小説全体をこしらえるために何もこじつける必要がないのであって、小説がこの語のなかに潜在的に存在しているのであり、一見荒唐無稽で、信じがたく、支離滅裂なところまで含めて、小説の筋の紆余曲折を決定するのはこの語なのである。彼は、すべてのひとにとって──そして言うまでもなくまず彼自身にとって──、《城》と名づけられる住居が、今日の世界でそれらに対応するものをもはや全然もたない暗黙の諸価値の体系のなかに、またその非今日性のゆえに証明の必要がないぶん一層圧倒的になる諸価値の体系のなかに、いまでも閉じこめられていることを認識する。ここから、彼が「測量師」に託する仕事が生れるのだ──この「測量師」の職業はなるほど実によく選択されている、もっともそれを実践できないだけのことであるが──、それは、子供っぽい夢、書物から得る思い出、そしてこの《城》という語に結びついた憧れの数々が、いきなり人生のなかに投げこまれるとき《城》が意味するものを、ただ単に学ぶことにある(彼はまた苦労して《城の紳士たち》という語の意味するものを学ぶ、なぜなら、彼の関係する Herren たちは、今日わたしたちがこの語から解するものであるとともに、重要人物、高官、行政機関の大立物でもあるからだ。村の人たちにとっては古い意味あいでの《領主たち》であり、女性たちにとっては、彼女らを性的奴隷へおとしめる威丈高な男どもである)。「城」とその官僚性の奥にあるところの、われわれの文化がこしらえた社会的、知的、感情的な構築物の全体に向って、彼に戦いを挑ませるこの試練においては、たとえ彼の勇気や根気がどれほど大きかろうと、Kがどうすれば相手に勝つことができるものか想像もできない。しかし彼の不幸な冒険行が続くかぎり、彼は、「城」にその支配を安定させ継続させる手段を与えているこの言語装置を破壊しないではいられないのだ。彼は言葉と物をしめあげて、両者が共謀して思想を隷属させていることを白状させる、そして他でもないこの点で、いっときは盲目となり最後にはひどい疲労感に打ちひしがれはするものの、彼は、自分の使命の本質を立派に果したことを誇る──ほとんどそうしていると言えるが──資格があるだろう。

[*51]……日常単語がいかにひとをあざむくものか、またそれらの単語が受けいれることのできる極度の圧縮を、文学がどんなに利用しうるものか、言語を奪われた人間としてカフカは誰よりもよく知っていた。彼自らが用いるイメージのなかへ、論理的なつながりではなく純然たる隣接関係のおかげで連合するさまざまな意味の最大量を圧縮することによって、彼自身、この驚くべき特性をもっぱら利用しているのである。ヤノーホの伝えるいいまわしによれば、「作家の創造とは圧縮すること」であって、少なくともこの点でカフカはフロイトと一致している、なぜならフロイトは、圧縮のなかに夢の営為や、それに関係する一切の創造行為の本質的なメカニスムを見るからだ。」
(マルト・ロベール『カフカのように孤独に』)
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