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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<私的哲学

「〔カフカの〕『日記』には、それと分かる理論的な知と結びついているように見える考察が頻出する。しかしこれらの思考は、一般的な形を借りつつも、その一般性とはついに無縁のものなのだ。それらの思考はいわば一般性のうちに亡命しているのであり、特異な出来事の表現として理解することも、普遍的な真理の説明として理解することも許さないような、不分明な様態に再び陥ってゆくのである。カフカの思考は、一律に有効な規則とは無縁であるが、彼の人生固有の事実の単なる指標などではさらにない。彼の思考はこの二つの海の狭間をすり抜けて泳ぐ。そして(ある日記の場合のように)、現実に起きた一連の出来事に変換されるや、いつのまにかその出来事の意味の探求に移行し、意味に肉薄しようとするのである。その時、物語はその説明と融合し始めるのだが、その説明は、いわゆる説明のひとつなどではなく、説明すべきことを説明し尽くすわけでもなく、何より物語を俯瞰して語るに至っていない。まるで説明は、本来その自閉性を打破すべきである物語の特殊性の方へ、自分自身の重みによって引き寄せられているかのようだ。説明に揺り動かされた意味は、事実の周囲を彷徨う。意味は事実から解放されなければ説明にならないが、事実と不可分であってこその説明なのである。無限に紆余曲折する内省、それを打ち破るイマージュを出発点とする再開の繰り返し、取るに足りない対象物に向けられる推論の細心の厳密さなどが、一般論を装いながらも、唯一無二のものに帰着する世界の厚みの中で捉えられるしかないこの思考の諸様式を構成しているのだ。
 マニー女史が指摘している通り、カフカは決して凡庸な事柄を書かないが、それは極度に研ぎ澄まされた知性ゆえではなく、既成概念に対する一種の生来の無関心によるものなのだ。実際、こうした思考が陳腐なものであるはずはないが、それは、この思考が完全にひとつの思考ではないためでもある。この思考は特殊な、まさに唯一人の人間に固有のものであり、どれほど肯定、否定、善や悪といった抽象的な語を用いても、より一層、現実に個人的な物語に似てくるといったものなのだ。ただしそれは、その瞬間瞬間が一度も出来したことが無く、決して繰り返されることも無い不可解な出来事であるような物語であるのだが。……
 カフカの作品は、アレゴリーと象徴と神話的フィクションの並外れた展開を我々に示してくれるが、それらは彼の省察の特性を通して、作品において不可欠なものとなっている。彼の省察は、孤独と法の、沈黙と公共の言葉の、その両極の間を揺れ動く。そしてそのどちらにも到達し得ないのだが、この揺れ動きはまた、揺れ動きそれ自体から脱出するための試みでもあるのだ。彼の思考は一般性に落ち着くことはできない。しかし自分の狂気や拘禁状態を嘆くことはあっても、彼の思考は絶対的な孤独というわけではない。なぜならそれは自らの孤独について語っているからである。この思考は無意味でもない。なぜならその無意味を意味としているからである。彼の思考は法の外にあるわけでもない。なぜならこの追放刑こそが彼の法であり、彼の思考はすでに法と和解しているからである。人々は不条理をこの思考の尺度にしたがるが、それについては彼自身がワラジムシの集団について語った言葉を引くことができるだろう。「ワラジムシに君自身のことを理解してもらうようひたすら努めるんだね。そしてそいつらの仕事の目的を訊ねるところまで漕ぎ着けたなら、その瞬間、君はワラジムシ一族を皆殺しにしてしまうことになるだろう」。思考が不条理に出会うや否や、この出会いは不条理の終焉を意味するのである。
 かくして、カフカのあらゆるテキストは、特異なものを語ることを強いられながら、その一般的な意味を表現するためにのみ語っているように見えることを余儀なくされている。」
(モーリス・ブランショ「カフカを読む」)
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