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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<人間が火を知る前の組成

「カフカにとって自分が生きている時代の年齢は、原初の時代を超えて進歩してきたものを何ら意味していない。彼の長篇小説は沼の世界で展開される。彼にあって被造物は、バッハオーフェンが雑婚制と名づける段階において現われてくる。この段階が忘れられているということは、それが現在にまで入りこんでいない、ということを意味しはしない。むしろそれはこの忘却によってこそ現前しているのだ。平均的市民の経験より深みに達する経験は、この段階にぶつかる。「ぼくには経験がある」、とカフカの最も初期の手記のひとつは言う、「そして全然冗談ぬきにぼくは言うのだが、それは堅い陸地の上で起こる船酔いなのだ」。最初の「観察」がぶらんこに乗ってなされる〔「国道の子供たち」〕のは謂れのないことではない。そしてカフカは果てしなく、経験の揺れ動く性質にかかずらっていく。あらゆる経験が足元でめりこんでいき、あらゆる経験が対極にあるそれと混じりあう。「ある夏のことだった」、と「中庭への扉を叩く」は始まる、「ある暑い一日。ぼくは妹と家に帰る途中で、ある中庭の戸口の前を通りかかった。妹が悪ふざけで扉を叩いたのか、それともうっかりしてか、それともただ拳を丸めて脅かしただけで全然叩いたりしなかったのか分からない」。三番目に言及されるいきさつはたんなる可能性にすぎないのだが、それは初めは無害に見えた先立つ二つの経験に別の光を投げかける。それはカフカの女たちが浮上してくる、そうした経験の土壌をなす湿地である。彼女らは沼の生き物であって、そのひとりのレニは、「右手の中指と薬指を」大きく広げると、「そのあいだには接合膜が、短い指のほとんどいちばん先の関節にまで」達している。すばらしい時代だったわ」、とあの正体の知れないフリーダはかつての生活を回想する、「あなたは一度も私の過去を訊いてくれなかったわね」。この過去はほかでもない、深みに隠されたあの暗い子宮へと遡る。バッハオーフェンの言葉を借りるなら、そこは、「その無秩序な豊饒さが天の光の清純な諸力に忌み嫌われ、アルノビウスの用いる〈不潔な快楽〉という名称を裏打ちする」(『古代人の墓碑象徴に関する試論』)、かの交合が行われる場所なのだ。
 ここからはじめて、物語作者としてのカフカのもつ技法が理解されてくる。長篇小説の他の登場人物たちがKに何か言うことがあるとき、それがきわめて重要なことであれまったく思いがけないことであれ、彼らはそれをことのついでに、そして本当はKもとっくに知っているはずのことのように言うのである。あたかもそこには新しいことなど何もなく、たださり気なく主人公に向かって、忘れていたことを思い出すように、という要請が出されるかのごとくなのだ。この意味ではヴィリー・ハースが『訴訟』の経緯を理解しようとして、こう述べたことは正しい。「この訴訟の対象、それどころかこの想像を絶した書物の本来の主人公は……忘却なのだ。……しかもこの忘却の主たる特性とは、彼が自分自身を忘却していることなのである。……忘却それ自身がここで、まさにもの言わぬ形象になった。それがこの被告人の姿であり、しかもそれはこのうえなくみごとな凝集性をもった形象なのだ」。……
 忘却されているものは決して単に個人的なものではない。この認識をもってわれわれは、カフカの作品のもつもうひとつ奥の敷居の前に立つことになる。忘却されているものはすべて、太古の世界の忘却されたものと混じりあい、これと無数の、定かならぬ、変転する結合をなしながら、繰り返し新たな奇形を生み出していくのだ。忘却とは、カフカの物語の無尽蔵の中間世界が、陽の目をみようとひしめきながら溢れ出てくる容器なのである。……けれどもカフカには、彼にとって重要な事実の世界と同様に、彼の祖先の世界もまた見究めがたいものだった。そして未開人のトーテムの木のように、この祖先の世界が下の動物たちのところまで通じていたことは確実である。ちなみに動物たちはカフカの場合にだけ忘却されたものの容器になっているというわけではない。ディークの深遠な『金髪のエックベルト』では、シュトローミというある小犬の忘れられた名前が、謎めいた罪の暗号として出てくる。したがってカフカが、忘却されているものを動物たちから聞き取ろうとして倦むことがなかったのは、理解できることである。動物たちはおそらく最終目標ではない。けれども動物たちなしではすまないのだ。「厳密にいえば、家畜小屋に行く道のたんなる邪魔ものだった」あの「断食芸人」のことを考えてみるがいい。「巣穴」の動物や「巨大なもぐら」は、こうした動物が土のなかをかきまわすように、頭のなかであれやこれや穿鑿していると見えないだろうか。しかし他方この思考には、また何か非常にとりとめないところがある。それはひとつの心配から別の心配へ優柔不断に揺れ動き、あらゆる不安にちょっとずつ口をつけ、そして絶望のようにひらひらと移り気である。そういうわけでカフカの作品には蝶も出てくる。罪を負いながら自分の罪のことなど一切知ろうとしない「猟師グラフス」は「蝶になってしまった」。「『笑わんでくれ』、と猟師グラフスは言う」。──次のことだけは確かだ。カフカのすべての被造物のなかで、思案することが最も多いのは動物たちである。法における腐敗にあたるもの、それが彼らの思考における不安なのだ。不安は事態の成り行きを台なしにするのだが、それでもこの成り行きのなかで唯一希望に満ちたものなのである。最も忘却されている異郷とは、けれどもわれわれの身体、自分自身の身体なのだから、カフカが自分の内部から飛び出してくる咳を「あの動物」と名づけたのはうなずけることである。咳はあの大きな群れの最前線の歩哨だったのだ。」
(ベンヤミン「せむしの小人」)
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