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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<逃げ去ってゆく文体

「中国の万里の長城は、その建設者たちによって完成させられたのではない。万里の長城についての物語〔『万里の長城が築かれたとき』〕もまた、カフカによって完成されることはなかった。作品が、挫折という主題に対して、しばしば、このように作品それ自体の挫折によって応えることがあるが、この事実は、あらゆる文学的野心の根底に存する不安のしるしと見なされるべきである。カフカは書かずにはいられないのだが、カフカが書くのを、書くというそのことが妨げるのだ。彼は中断し、また再開する。彼の情熱に希望が無いという留保付きではあるが。しかし、終止符を打つことの不可能性は、続行することの不可能性に他ならない。そして最も驚くべきことは、この異議申し立て(それ無くしては言語も文学も真の探求も存在しないが、しかしそれだけでは、探求、文学、言語のいずれを保証するにも不十分であり、その対象に先んじて存在することはなく、それが逆転させる運動と同様、その形態を予測できない)が、カフカの文体そのものを通して透かし見えるという事実であり、その文体自体がしばしばほとんどむき出しの表明であるということなのだ。
 とりわけ『日記』において、こうした展開が、きわめて奇妙な様式の上に構築されていることはよく知られている。本質的な主張の周囲に二次的な主張の数々が配され、それらが部分的な留保を付しながらも、根本の主張を包括的に支えているのである。各々の留保はそれを補完する別の留保につながり、相互に結びついて、全体としてひとつの否定的構築物を構成しているのであるが、それは、同時に進行し完成される中心的な構築物と平行しているのだ。すなわち、終局に到達したその主張は、完全に展開されたと同時に、完全に撤回されてしまうのである。人は、自分がその主張の裏をつかんでいたのか、表をつかんでいたのかわからなくなる。自分がその構築物と相対しているのか、その構築物が消失した穴と相対しているのか、わからなくなるのである。実に、思考が我々にどの面を向けているのか見出すのが不可能なほど、思考は向きを転じ、逸れてゆく。まるで思考はねじれた紐の先にあって、そのねじれの運動性を再現すること以外の目的を持たないかのように。カフカの言葉は、それらがまさしく無限の退行を試みているという事実によって、空虚に拠って立っているという印象と同じく、目が眩むような仕方でおのれを超越しているという印象をも与えるのである。人は言葉を超えたものを信じる。挫折を超えた向こうにあるもの、不可能以上のものであり、だからこそ我々に希望を返し与えてくれるような不可能性を信じるのである(「メシアは、もはや必要でなくなった時、初めてやって来るだろう。その到来の日に一日遅れでようやく訪れることだろう、最後の日にではなく、究極の最後のそのときに」。あるいはまた、「ただ一語だけ、ただひとつの祈りだけ、ただ一度の空気のそよぎ、お前がまだ生きて待っているという、ただひとつの証しだけ。いや、祈りではなく、ただ一度の呼吸、呼吸でさえなく、ただひとつの存在、存在ですらなく、ただひとつの思考、ひとつの思考ですらなく、ただ眠りの静謐さだけ」)。しかし言葉が中断されれば、我々には無限が実現する希望も、有限の内実の確かさもない。無限なるものの方へ引きずられてゆくことによって、我々は限界を放棄し、遂には無限なるものをも放棄しなければならなくなるのである。
 カフカの言語はしばしば、疑問の様態を維持しようとしているようだ。あたかも、肯定や否定から逃れ去るものを覆いとして、何かを捉えようとしているかのように。しかし数々の問いは、繰り返されるうちに限定されてゆく。それらは自分が求めているものをますます遠ざけ、その可能性を滅ぼしてゆくのである。それらの問いは、ひとつの答えを唯一の希望として絶望的に抱き続けるのだが、一切の答えを不可能にすることによって、さらには、問いかけている者の実存そのものを消滅させることによってしか、問いを続行することができない(「あれは何だ。川岸の木々の下を行くのは一体誰なのか。打ち捨てられているのは一体誰だ。もはや救われないのは誰だ。誰の墓の上に草が生えているのか」。あるいは、「何がお前を悩ませているのだ。何がお前の魂まで揺さぶるのか。お前の扉の錠を手探りしているのは何なのか。扉が開いているのに入らず、通りからお前を呼ぶのは誰だ。ああ! それはまさに、お前が悩ませている者、お前が魂まで揺さぶっている者、その扉をお前が手探りしている者、開いている扉から入ろうとせずに、お前が通りから呼びかけている者なのだ!」)。実際、言語はここでその能力を使い果たし、どんなことをしてでも持続されること以外の目的を持たないように見える。言語はその最も空虚な可能性と一体化しているように見えるが、それゆえにまた、言語は我々の目に、極めて悲劇的な豊饒さを帯びて映る。なぜならその可能性とは、すべてを奪われ、もはや異議申し立てすべきものを何ひとつ見出すことのできない異議申し立ての運動性によってしか現実化されることのない言語に他ならないからである。」
(モーリス・ブランショ「カフカと文学」)
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