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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<未来への脱出口2

「カフカのような人物が、作家になれなければ破滅だ、と考えるのはなぜか。それが彼の「召命」であり、彼に与えられた任務の固有のかたちなのか。しかし、彼はどこから、おそらく自分は定めを全うし損うが、自分独自のし損い方こそが、書くということなのだ、というほとんど確信に近い思いを得たのか。彼が文学に極めて重大な意味を与えていたことは無数のテキストが明確に示している。「僕の頭の中の世界の広大無辺さ……それを僕の中に抑えこんだり、埋もれさせておくぐらいなら、千回でも爆発させてしまう方がいい。僕がここにいるのはそのためなのだし、そのことに僕はいささかの疑念も無いのだから」。彼はここでもまた、ごく普通に、盲目的に外にむかって噴出する創造の切迫性を表現しているのだ。多くの場合、彼が文学に賭けていると感じているのは、彼自身の存在である。書くことが彼を存在させるのだ。「……僕はある直観を得た。単調で、空虚で、道を踏み外した僕の人生、この独身者の生活にも正当性はあるのだ、と。……それは僕を進歩に導いてくれる唯一の道なのだ」。また別のところでは、「大胆不敵で、むき出しで、力強く、意表を突くような、普段の僕はそんなことはないけれど、書いている時だけはそうなんだ」。このテキストは、文学活動をある代償行為に還元しようとしている。カフカは生きることが不得手だった。彼はただ書くことによって生きていたのだ。とはいえ、こうした見地においても、本質的な部分は解明されるべきものとして残る。なぜなら、我々が理解したいのは、なぜ書くのかということ──それも重要な作品ではなく、取るに足りない数語を(「僕が包まれているこの特異な種類の霊感とは……僕は全能であり、ある決まった仕事のためだけの存在ではない、というものだ。僕が『彼は窓から眺めていた』という文を無作為に書くとき、この文はすでに完璧なのだ」)。──「僕は窓から眺めていた」となぜ書くのか。それは、この一文がすでに彼自身を超えたものであるからなのだ。
 カフカが我々に理解させてくれるのは、彼が自分自身の中に潜在的な能力を解放することができるということ、あるいは、閉じ込められ包囲されていると感じる時にも、この彼も知らない種々の身近な可能性という道を通って、脱け出ることができるということなのだ。孤独の中で、彼はばらばらになる。この分裂四散は彼の孤独を非常に危険なものにするが、またそれと同時に、この混乱の中から何か重要なものが、言語がそれを形にして受け止めるという条件で浮かび上がることができるのである。肝心なことは、この瞬間に彼が語るのはほとんど不可能だということなのだ。通常、カフカは自分の考えを表現することに多大な困難を感じているが、それは彼の意識の内容が漠然としたものだからである。しかし今や、その困難は可能な限度を超えたものとなる。「僕の力は、どうということのない文を書くのにも足りないほどだ」。──「僕が書くと、ただの一語もほかの語に合わなくなる……僕がその語を判別する、と言うより僕はその語を創り出すのだが、その前に、僕の疑念がそれぞれの語を取り巻いてしまうのだ!」。……
 混乱があらゆる言語を排除し、その結果、最も正確で最も意識的で最も曖昧さや混乱から遠い言語、すなわち文学言語の助けを必要とするような瞬間に向かって、語ることが困難となるまさにその時に語ろうと試みること──文学はそこに存するのだと言えるだろう。このような時、作家は、自分が「生きるということの精神的可能性」を創造しているのだと信じることができる。彼は、自分の創造が一語一語、自分の生と結びついていることを感じ、自分自身を再創造、再構築するのである。この時、文学は「境界への襲撃」と化し、孤独と言語という拮抗する力によって我々をこの世界の極限の地点へ、「一般的に人間的なるものの限界へ」駆り立てるのだ。」
(モーリス・ブランショ「カフカと文学」)
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