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Lubricate us with mucus. ──2nd season 人間将棋編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<夢の分子構造3

「ふつう、人は「自分が夢を見る」のだと考える。目がさめているときの自分が、そのまま夢を見ていると考える。この場合、この世界はひとつであり、「私」はひとりだ。本当にそうだろうか? 夢の世界は目がさめている世界と異なり、流れている時間も異なる。ならば、生まれてからずっと、夢の世界の自分は別の時間の流れを生きてきたことになる。そこには別の歴史があり、別の記憶がある。別の記憶があるならば、たとえそれが自分であったとしても、それは別の自分であるはずだ。それなのに、ひとは、あくまで目がさめた世界、現実から、自分が夢を見ると考えてしまう。夢の記憶を、夢の自分を無いものとして、自分の同一性に回収してしまう。hendayoさんの感覚は、それにあらがっている。この世界、この私をただ同じひとつのものだということに違和を感じる。そのようなするどい感覚は、他人の共感を得にくく、孤独だ。ここに、東京のカフカはいる。
 それが何語であれ、「私」が自由に語っているのだというとき、その言葉を語る「私」はある領域にすでに投げ込まれている。そこにはひとつの世界のひとりの自分がいるにすぎない。カフカとまったく同じ境遇の者がカフカと同じように書けるのではない。どのような現実であれ、その現実の不可能性を感じ引き受けたときに起きるズレ、そこでなお生きるのだということが、非領域において書くということだ。
 …………
 hendayoさんは、夢の世界について、
(1)夢というのは一人一人見ていて、自分だけのものだ。
(2)一人で夢を見ているとしても、見ているときに「夢の世界」というネットワークと繋がっている。
 どちらかではないかと考えているみたいだ。僕の考えはどちらでもなくて、
(3)夢というのは一人でもネットワークでもなく、それらの「外側」からの視線・記憶ではないか。
 ふだん、自分が自分として意識してモノや風景を見るとき、僕らは世界を解釈し、自分の同一性のなかに取り込んでいる。そうしたときにはけっして気づかないのだが、ある種のふとした瞬間、意識がかき消えた時間、世界からまなざされている視線をかいま見ることがある。夢、とはこの風景からの、世界からのまなざしの記憶ではないかと思うのだ。「私」がそこで夢見ているのではなく、まなざしの照り返しとして僕らはそこにいる。“もうひとりの自分”の感覚はあたりまえで、それは外から見られた自分なのだ。そこにある記憶は、眠り夢見ている「私」の記憶ではなく、まなざしの側の記憶であり・そのまなざしに照り返す非領域としての存在(=夢の自分)にまたたく記憶なのだ。」
(nos/unspiritualized「東京のカフカたちのためのメモ 〜非領域のDream baby dream篇〜」)
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