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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<自己喪失ギャグ2

「ゴーゴリもドストエフスキーも笑いを作品にみなぎらせましたが、カフカもまた、一種あやしげな、グロテスクな笑いをただよわせています。

「その部屋でなにか落ちたようですな」と支配人が左手の隣室でいった。(『変身』)
 落ちたのは、毒虫に変った主人公グレゴールです。グレゴールはある朝毒虫に変っていた。ちょうど、『審判』を『城』の冒頭のように、既に主人公の、「とりこ」にされた状況は開始している。彼は平凡なサラリーマンで、虫になっても支配人のことを気にしている。クビになりはしないか、と思っているのです。そのグレゴール(虫)が、家へ様子をみずから見にきた支配人を気にしたあまり、寝台から転げおちて頭をしたたか打つと、支配人はきき耳をたてて、右のようにいうのであります。
 カフカは主人公とそれをめぐる者達との間の関係を最も端的に現わす時に、きまってこうした笑いを導入しているのです。その関係はどうしようもない大きな力で、両者を引き離している。私はさっき、カフカの「精神構造」をかなり長く述べましたが、あれは別な言いかたをすれば、どうしても相通じることがない関係、いや、相通じることがないということでむしろ通じている、といったようなものであって、いずれにせよ、距離がある、通じていないということはいえるわけです。このところにカフカは奇妙な笑いを忍びこませるようです。しかしもっと特徴的なことは、私がさっき、毒虫になったグレゴールの筋書きをちょっと書きましたが、こうした、毒虫になったサラリーマンが、自分の悲惨なこの変身ということより、支配人のことを気にし、クビを気にし、そのあげく支配人のいる隣室で音を立てる、というこの筋そのものの中に既に何ともいえぬ、笑いが含まれているということです。
 『城』だってその筋そのものが、笑いを誘います。つまり人間の存在そのものが、既に笑いを誘うものだ、ということをカフカはいいたいのです。ここでも笑いとともに、意味の世界が充実した重みをもって現われてくるようです。
 人物は消えるが、「人間存在」そのものが、具体的な重みをもって、人物にかわってリアリティをもってくる事情は、この笑いを通してもよく理解されると思います。」
(小島信夫「思想と表現」)
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