「

というのも、一九三二年制作のデッサンに描かれた繊細な多面体の牢獄のなかで踊っている身体は、レイモン・ルセールの作品で美しい水の女が装っていた「美の魅惑」とはまったく無縁の存在だからだ。この身体はジャコメッティにおける他のすべての身体がそうであるように、「休息を一時も取ることなく、たえず、自らを固定すべき地点を探している」のだが、そうした地点をけっして見出しえない。この身体がクリスタルに住みつくのは、自身の壊乱状況をもっと深く体験するためなのである。
クリスタルの内部で、身体は──潜在的にであれ──休みなく空転し、死にいたり、切り裂かれた器官や打ち捨てられ、散乱しつつ幽閉される骨や化石に変じていく。ジャコメッティの場合、あたかも檻やクリスタル──鋭い稜をいくつももつ幾何学的形態、透明なナイフのような構成体──はこの彫刻家の内部か、眼前で、解体し、分解する身体と陰惨に相対していなければ、存在しえないかのように、である。おそらくジャコメッティの「抽象」的なクリスタルの建築は、畸形化、彼自身の言葉を使うならば、「分解志向的な関係」を宿した仮想的な居住空間と考えなければならないだろう。こうした視点によってこそ
クリスタルとしてのオブジェ(〈キューブ〉はその究極の形態といえるだろう)と、人体をめぐるもっとも残忍な夢想の高まりのなかでジャコメッティが同時期案出した、すべての
壊乱する身体とのパラドクサルな関係が照射されることになるはずである。
…………
つまり、クリスタルそのもの──ジャコメッティが明らかに執着していた、あの多面体のフォルム──は身体の破壊、いや変質のための建築学的な道具にすぎないのだと理解すべきなのだ。残酷の幾何学ともいうべき演劇的世界がここには描かれている。このクリスタルはだから、文学的にいえば、『ロクス・ソルス』のダイヤモンドに近いオブジェであるよりも、この美しいダイヤモンドとカフカの『ある流刑地の話』に出てくるあの恐るべき死刑執行装置の間に位置づけられる、と考えていい。ジャコメッティの著作に解体する身体をめぐる強迫的、反復的な恐怖の感情が頻出することからも、幻想のプリズムとしてのクリスタルの特性を確認できるだろう。このクリスタルは雲のように消え失せてしまうかと思うと、巨大化したり、相互に溶解し合うと思うと、継起的に出現する不動化の瞬間には相互に分離してしまう──だから、クリスタルが視覚化される非連続の時間そのものが複数の面の錯綜するクリスタルの構造そのものを表現している──。」
(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ジャコメッティ──キューブと顔』)