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Lubricate us with mucus. ──2nd season 人間将棋編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<夢の分子構造4


……ジャコメッティは〈キューブ〉の複合体のごときフォルムを制作していた当時、おそらくフロイトを読んでいた。彼は当時一般的だった無意識の空間モデル、つまり内部と外部のモデルにしたがって、フロイトを読んでいたのだった。いずれにしても、彫刻で開始していた形態生成的プロセスの決定的役割を自身の夢に授けるためには十分な夢を見ていたのである。ジャコメッティの手帖、ノートの書き込まれた紙片は、この当時の数年間、彼が連合イメージ、とくにパラドックス、非-意味、矛盾原理への挑戦、物質のメタモルフォーズのありかたに深い関心を払っていた事実を示している。水は小石を、振動する空気は揺れる大地を呼び寄せ、「戯れる針の光」は理解不可能な移動原理にしたがって「回転する骰子」の稜に比喩される。ジャコメッティは一九三三年、空洞のなかに浮遊するこの移動原理を「眼に見えない魔法の白糸」と名づけている。一九三四年、彼は「オブジェ」や「エクリチュール」を、また「生きること」そのものと同じように「構築されるもの」を、還元しえない「コントラスト」と同じく「統一」をそれぞれ生成できる「暗闇の夢想」、つまり夢のプロセスをフォルムの精霊と名づけることになるだろう。ジャコメッティはまたこのプロセスを同じテキストのなかで「置換」とも名づけるだろう。そうしたすべては夢の作業の主要な役割を前面に示し、夢の無数の置換、あるいは移動、凝縮(またはクリスタル化)の弁証法と、夢の休みない形象変化の弁証法を明示するための別様の表現方法であったにすぎない。
 …………
 ……内面の無秩序を引き起こすほどの戸惑いを誘うフォルム相互の類縁性と、フォルムが強烈すぎ、その「粘着力」のために恐怖の感情が生みおとされ、遠ざけられる奇異性との間にくりひろげられる凶暴なゲーム……夢から生まれたフォルムは自分には近すぎるのだろうか、それとも遠すぎるのだろうか。当然のことだが、夢のフォルムはそうしたすべてであり、〈キューブ〉もまた、一九三五年以降ジャコメッティがもとめた「現前」の美術館に収められるには過度に意味深い徴候としてのフォルムの一つだったのである。長期間を必要とした〈キューブ〉の複雑な形象生成のプロセスとその潜在的性格(たとえば、描かれた肖像画を通して見えてくるもの)、要求と拒絶をめぐるその奇妙な揺れ、そうしたすべては〈キューブ〉のフォルムが創造した「二重の距離」とでも呼ぶべき存立の様態を作者自身に証し立てている。……〈キューブ〉のアウラはしたがって、この作品の結晶化したフォルムをさすのだと考えていいだろう。〈キューブ〉なる作品は遠すぎるものでありながら同時に近すぎるものであり、小さすぎるものであると同時に大きすぎるものであり、いずれの場合にも合理的な方向や展開からは外れているのである。
 …………
 後に、ジャコメッティは「反動」で〈キューブ〉とその死を思わせる抽象世界──つまり、その過剰に遠い近さ、その過剰に近い奇異性──を拒絶したのだが、それは彼がこの作品を自分からもっときっぱりと遠ざけて、貶めたかったからである。なぜなら、〈キューブ〉は彼の表現を援用するなら、自分の視覚世界のなにものにも(とくに肖像画と「現前」の視点から見て)合致していなかったからだ。もちろん、それはこの作品には両眼が不在であるというのに、それがあまりにも近くから彼を見つめていたという意味なのであり、またこの彫刻はあの悪意に満ちた黒い石のように、いつかは必ず彼を恐怖の底に陥れるように触れてくるということと同義だった。だから、私たちは〈キューブ〉の「多次元性」を理解すべきなのであり、そして、「キューブ」のフォルムが相異なる──しかし、つねに連接する──複数の現実と効用の水準に布置されうるという適性を把握すべく試みるべきなのである。こうした理解、把握はおそらく実際には私たちには不可能かもしれないのだが、ジャコメッティ自身の言葉を通して、作品の構造と力学を少なくとも確認することは可能だろう。つまり、ジャコメッティにとって作品を制作するという行為は、複数の現実の次元を編み合わせて、彼の言葉を借りれば、「可能な限りあらゆる次元において前進すること」だったのである。」
(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ジャコメッティ──キューブと顔』)
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