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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<FUN>DA>MENTAL

「別の見方をすれば、もろもろの芸術の間の分担、あるいはそれぞれの自立性、芸術の間にありうる序列といった問題は、まったく重要性を失ってしまう。諸芸術の共同体があり、それらに共通の問題があるからである。芸術にとっては、音楽であれ絵画であれ、もろもろの形式を再現したり発明したりすることではなく、力を捉えることが問題なのだ。まさにこの点において、どんな芸術も具象的なものではない。クレーの名高い表現「見えるものを再現するのではなく、見えるようにすること」は他でもなくこのことを意味している。絵画の使命とは、見えない諸力を見えるようにする試みとして定義される。同じように音楽は、音的でない諸力を音的にするように努める。これは明白なことだ。力は感覚と密接な関係をもつのである。感覚が存在するためには、ある力が身体に、つまり波動の場所に作用しなければならない。しかし力が感覚の条件であるとしても、感覚されるものは力ではない。なぜなら感覚は、感覚の条件となる諸力から出発しながら、まったく別のものを「与える」からである。感覚がわれわれに与えるものにおいて、与えられていない諸力を捉えるために、感覚不可能な諸力を感覚させ、感覚に固有の条件にまで遡行するために、いかにして感覚は十分みずからに回帰し、弛緩し緊縮することができるのか。そういうわけで、音楽は音的でない諸力を音的に、絵画は見えない諸力を見えるようにしなければならないのだ。ときには同じことになる。問題は時間であって、それは音的でなく、見えるものでもないのだが、いかにして時間を描くのか、あるいは時間を聞こえるようにするのか。それなら圧力、慣性、重力、引力、天体の回転、発芽のような始原的な力については、どうするのか。ときには反対に、ある種の芸術の微妙な力は、むしろ別の芸術の「所与」に属しているようである。たとえば音あるいは叫びさえも、いかに描くのか(また逆に、色彩をいかに聞かせるのか)。
 これは画家たちが強く意識する問題なのである。あまりに敬虔すぎる批評家たちが、ミレーはじゃが芋の袋のように供え物をもつ農民を描いていると批判したが、ミレーはまさに答えたのである。供え物とじゃが芋袋という二つのものに共通の重力は、二つの間の具象的区別よりもずっと深いと。彼は画家として、重力という力を描こうとしたのであって、供え物あるいはじゃが芋袋を描こうとしたわけではない。そしてセザンヌの天才とは、絵画のあらゆる手段をこの課題に捧げたことではなかったか。山々の褶曲の力、りんごの発芽の力、風景における熱の力、等々。またヴァン・ゴッホはまさに未知の諸力、ひまわりの種子の驚異的な力を発見したのだ。」
(ジル・ドゥルーズ「力を描くこと」)
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