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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<イメージ危機

「しかしながら、カフカの長篇小説からそれとは無縁な観念〔神学的解釈など〕をすべて遠ざけることに成功すれば、あるときは晦渋に、あるときはあまりにも判読しやすく感じられるこれらの象徴について、小説がわれわれに想像以上に直接的に教えてくれることに気がつく。当然予想できるところであるが、それらの象徴の最良の解釈はヨーゼフ・Kである、なぜなら、ある意味で、「訴訟」「法廷」「掟」等々のイメージに関する彼の立場はわれわれの立場と正確に同じだからである。実際に彼の身に起こることは何であろうか。出だしから、彼が置かれているのは「裁判所」の現実の前にではなく、彼が個人として生きている、したがって彼が理解し、名付ける必要があるひとつの情況を表象していると考えられるイメージの前になのである。このような観点からすれば、この長篇小説は、彼がこの情況を、言語が彼に提起するさまざまなイメージと対決させるときに起こることの単純な描写である。こうして、彼は逮捕されるが、彼はただちに、彼が「民衆の軽罪を追求する」通常の裁判所によって逮捕されたのではないことを教えられる、ということはとりもなおさず、彼がいまや属している制度はその特長のいくつかによって「裁判所」に似ている──なぜならそれはその名をとるからである──こと、別の特徴によって、なかでも軽罪に対するその態度によって、この制度は「裁判所」とは区別されることを意味する。
 彼の状態の説明の代わりに、ひとは彼に、彼が知っているもの──通常の法廷──と、その名は知らずにその影響を受けているもの、彼が内面的に従っている特殊な法廷との間の類似を提し出す。小説はヨーゼフ・Kがこの類似を受け入れ、信じ、疑い、信じることと疑うことの諸結果を天びんにかけ、自分自身の先入見を考慮に入れることなしに象徴・現実の価値を正しく評価しようと努力するそのやり方をなぞってゆく。
 物語を通じて終始、疑いと不信、信じることと懐疑主義とが主人公の精神自体の中で説明しがたく結びついている。……
 『審判』が「掟」、「法廷」、「裁判官」のイメージとヨーゼフ・Kの対決であるという事実は、彼がいたるところで出会い、またいたるところで彼を誤りへと誘う数多くの絵、写真、複製によってはっきりと裏書きされる。たとえば弁護士のところで、彼は暗い片隅に威厳にみちた、おそろしげなひとりの裁判官の肖像を見出すが、彼はただちにそれを自分の裁判官として受けとるのである。しかし弁護士の女中が彼にまちがいを悟らせる、それはまったくちっぽけな裁判官、身分からいっても背丈からいってもちっぽけな裁判官であり、そのおそろしい態度、その威圧するような衣裳は画家の純然たる創案なのである。彼が座っている立派な椅子も同じことで、実際には台所のありふれた木製の腰掛けにすぎない。同様に、予審判事の帳簿をめくりながら、彼は法律の文章の挿絵とはどうしても見做しがたいひとつのイメージに偶然ぶつかる。それは寝椅子の上にぎこちなく座っている裸の男女を表した卑猥な版画なのである。チトレリに会いに行くと、チトレリは、裁判官たちの表象はなんら現実とは関係がなく、衣裳、道具立て、顔の表情といったものはすべて彼のでっち上げであり、彼は慣習の不変の手本に従ってそれを創案し、描くということをKに保証する。たとえば、彼が描いたある裁判官は、Kが弁護士のところでその肖像を見たのとおどろくほどよく似ていて、これまた、やはり立派な椅子に坐っている。この椅子の背もたせは、あまりぼんやりしていて、Kには意味がまったくつかめないデッサンの、ひとつの大きな寓意像で飾られている。じっと見つめているうちに、やっと彼はその寓意像が「正義」──それは目かくしをし、秤をもっている──と同時に、かかとにつばさが生えているのだから、「勝利」を表していることがわかる。それはなにを意味しているのだろうか。画家はそれについてなんら知るところがない。「もちろん」、とKはいう、「この寓意が立派な椅子の上にあらわされているところをお描きになったわけですね」──「そうじゃありません」、と画家はいう、「私は寓意も立派な椅子も一度も見たことはありません」。画家と同じように、Kは寓意も、また意味の代わりに、その現実を彼にいくらか伝えることができるような立派な椅子も決して見ることはないであろう。彼が眼の前にするのは単にイメージ、もっとわるくすれば、イメージのイメージ、それらの内容を二重に空にされた表象でしかないことだろう。
 こういった、ひとを欺き、またファンタジーを欠いた約束事によってひどく歪められたイメージの存在はわれわれにつぎのことを告げる。すなわち、ここでは類似は不安定なものであること、通常の法廷ともうひとつの法廷の間には正確な対応はなく、したがって、「法廷」の象徴はKが彼の生活行動において利用できるようなことはなにひとつ教えはしないことである。……もし彼を被告とする見えざる「法廷」がひとつの象徴であるとすれば、それは、それが類似を借りてくる法律制度と同じ属性、同じ性質、同じ機能をもつはずであり、そして、なかでも、裁くための土台となる掟を制定しなければならない。しかし、Kが実際に見るもの、またKとともにわれわれが見るもの──われわれは彼自身の眼を通してしか見ないのだから──はすべて、彼にその逆を証明するような性質のものばかりである。第一に、事件の順序は訴訟手続の経過をまったくたどらない。Kは逮捕されるが、身柄は自由である、彼は裁判所に属する二人の《見張り》に捕らえられるのであって、警察にではない、彼の処刑は判決に先立つし、そもそも判決は言い渡されない、彼は電話で召喚されるが、召喚の日時は指示されず、したがって、彼は自分である日曜日に出頭することに決める。彼に指定された場所は裁判所ではなく、貸アパート、汚らしく、超満員の労働者の家である、彼を案内するのは廷丁や守衛ではなく、洗濯をしているひとりの女である、傍聴室にしてからが法廷の一室ではなく、そこでは公開の集会が開かれており、その上、この集会は一組の恋人たちのたのしみで中断される、Kの訊問は訊問などといったものではなく、彼の身元を確認することにすら適していない(彼はペンキ屋として記載され、彼の抗議にもかかわらず、訂正されない)、さらに、しゃべるのは彼ひとりである、彼、被告が「裁判所」を告発するのであり(そして、彼はまさしくそれが自分の抱いていたイメージと合わないことで「裁判所」を告発する)、「裁判所」はそれを認めない。一般的にいって、この「法廷」には「正義」の行使を除けば、なんでものぞむものが見出せる。最後までそうである。この事件において有能なのは弁護士ではなく、画家である、監獄の司祭はKに死の準備をさせに来るのではなく、彼にはまったく判らないひとつの伝説を語ることによって、彼を閉口させる、そして最後に、二人の死刑執行人は死刑執行人ではなく、演劇人、田舎役者であり、最後の瞬間に彼が物事の明確なヴィジョンをもつのを妨げる。実際、死ぬ前に、これまでたえず彼の視力をくもらせてきた偽りのイメージの群れが「彼に向かって両腕を差し出すひとりの男」のイメージに席をゆずる。彼の冒険が解決しなかった最初にして最後の問いを彼が提出するのはそのときである、しかし、彼の視線は彼の上にかがみ込む二人の男たちによってさえぎられる、そして彼の最後の嘆き〔「犬のようだ!」〕は最後の無益なメタファーである。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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