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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<偶像崇拝批判序説5

「カフカ解釈がその対象の性質自体によって正当づけられながら、なぜ必然的に出口がないか、をわれわれはいまや理解する。それは、この解釈が適用されるのが言語──つまり、それ自体、どんな言語も暗黙裡に関係をもつさまざまな象徴のひとつの解釈であり、できるかぎり厳密で、客観的で、完璧な注釈づきの解読である言語──だからである。カフカの主人公は自分のシチュエーションによって象徴を試練にかけることを余儀なくされる。そして彼は、ひとびとが彼にひとつのイメージをさし出すたびにそうするのである。ひとびとはそのイメージについて、それがなにを意味しているかではなく、それがなにか本質的で、さらには聖なるものを表しているという。最初、彼にはなにも見えない、なぜなら、彼の観照にさし出されるイメージは「もはや非常によい状態にはなく」、「古くなって、色あせ、方々が破れ、しわくちゃになって、しみがついて」いるからである。そこにまだ残っているものは容易にそれと見分けがたい、それはまさしく追憶の意味と価値とをもっている。
 時間は、磨損と忘却をひきつれて、そもそものはじめには眼に見え、感じられる現実の世界と、どのような名をそれに与えようとするにせよ、もうひとつの世界との間に橋をかけることを自負した象徴的思想をゆゆしいまでに毀損してしまった。しかし、忘却の烙印を押されたあらゆる現象と同様、この毀損も気づかれないままである。だれもが、あたかも象徴がまだ生きているかのように、あたかもそれらがまだ掟の力と生活に対する現実的な力をもっているかのように振舞っている。こうして、それらの象徴は凝固し、硬直し、冷たくなったまま温存され、単なる言い回し、レトリックの比喩、あるいは世俗的な語り口の列に堕す。時効にかかった時代の比喩、格言、紋切り型、諺、メタファー、かつては生きた共同体の中に根づいていたアナロジックな思想のこういったあらゆる残滓はもはや、それらの自分の権力を強化するために役立てるシニックな社会のひよわとはいえ、なお貴重な補助手段でしかない。その最初の意味から逸らされて、それらは「城」や「法廷」について、事物の《存在》について、なにひとつ語ることがない。しかし、それらは強制権の巨大な力を正当づけ、維持するにはきわめて有効であり、この力によって「城」や「法廷」の存在はかろうじて感じられるのである。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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