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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<偶像崇拝批判序説6

「「……先日、山々をまえにして私はフランシスコ派的な郷愁にかられてしまったけれど、あなたはほんとにそんな私をばかと思わなかった?」
「誓ってもいい、そんなことないよ。いとしいアンヌ=マリー、そういうキリスト教信仰のなごりは容易に許せる種類のものだ。もちろん聖フランチェスコの時代がかぎりなくつづくことができるのだったら…」
「私はいまでもそう思うの… 呼吸のように自然な信仰、だれもが天使の存在を信じていて… もしそうだったら、人生もずっと単純だったでしょうね!」
「そう、しかしそんなことはありえなかった。そもそもぼくたちは、それを夢みた人々、つまり何人かの詩人の言葉に依拠してあの時代を判断している。実はぼくたちの時代に劣らず獰猛な不確かな時代だった。ある種の人間にとって信仰は決して容易なものではなかったとぼくは思う。ぼくたちは、もっと熾烈な他の闘争を知ったはずなのだ… それに、フランチェスコの時代が世の終わりまでつづくなどということは、そもそもありえなかった。フィクションは空になっていく。もろもろの宗教も、美しい反映におおわれた貯水池のようなものだ。しかし底に裂け目があり、水がすこしずつもれだす。いつかはその反映もなくなり、あとにのこされるのは古いセメントと底にたまった泥だけ。それがこの世界の掟なのだ。反映なしに生きるすべを知らなければならない。それは可能であって、おそらくそれはもうひとつ別の形の幸福なのだ。とにかく汚いへどろや腐った貯水池から遠ざからないといけない。ぼくたちはまさにそうしたのだ!」
「世紀をかえたいとは思わない?」
「もちろんそんなことは思わない! ぼくは自分の生きているこの時代が気に入っているのだ。ぼくたちはかなり壮大な事件の同時代人なのだ。その事件について人々はすでにある程度語りはしたものの、まだ騒ぎが静まったわけではない。つまり神の死という事件だ。すべてがぼくたちにそのことを大声で告げている。実践活動の堕落からカトリック哲学の現状まで。ブロンデル氏〔モーリス・ブロンデル、宗教哲学者〕の話はレジスから聞いたにちがいないと思うけれど、彼は非常に頭のいい人だ。しかしそういう頭のよさがぼくになにを連想させるか、君にいおう。どの映画だったかはっきりとはおぼえていないけれども、北極圏を舞台とする映画で、氷が解けはじめる時期に徒歩で川下りをする人物をみたことがあるんだ。現代のカトリック信者はそれなのだ。ぼくがいいたいのは、ほんものの信者ということなんだが。彼は氷から氷へと飛び移り、ヴァチカン会議が合理主義を手なづけようと試みた以上、信仰至上主義者であることを自らに禁じている。しかし彼はますます理性を切り捨て、縁を断ち切ろうとしている。彼はベルクソン小父さんの直観を神秘体験に結びつけようとする。次第に速さをます流れに、なんとかしてついて行こうとする、均衡を失いそうになるが、あやういところでとりもどす。彼は虚勢を張って大地の上とおなじくらい足元はしっかりしているといいはることができる。いいはるということなら、いつでもなにをいいはってもいいんだから。しかしぼくたちの目からみれば、彼がますます危険な歪曲におちいり、彼の乗っている氷片がますますもろくなっていることは明らかなのだ」
「あなたのいうことがきっと全部はわかっていないんでしょうけれど、でもだいたいのことはわかるわ。川の比喩はなんてみごとなのかしら! これからはもっとしばしば朝はやくあなたに会いにくるわ」
「アンヌ=マリー、ぼくのいうことをよく理解してほしい。聖金曜日に小豚を食べたという理由で、あるいは聖書のなかのほんのちょっとした言葉に異議を唱えたという理由で火あぶりにされた時代、それこそがほんとうにキリスト教の時代なのであって、それ以外にはないのだということ。そういう時代ははるか昔に過ぎ去ってしまった。真の信仰の対象たる神は、たしかに死んでしまった。ぼくが証拠としてあげたいのは、その神の最後の擁護者たちの知性であり巧妙さ自体だ。それらはもはや実験室での仕事にすぎなくて、神をよみがえらせる血清なんか全然ないんだ。しかしぼくたちは、三十世紀になってもまだ、そのころの人間に理解されるだろう。なぜならぼくたちは聖書をしりぞけ、キリストをこばみ、秘蹟を否定したのだから」」
(リュシアン・ルバテ「第二十九章 すりへった踵」)
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