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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<中国・ロシア・ユダヤ・日本

「ドレイは、自分がドレイであるという意識を拒むものだ。かれは自分がドレイでないと思うときに真のドレイである。ドレイは、かれみずからがドレイの主人になったときに十全のドレイ性を発揮する。なぜなら、そのときかれは主観的にはドレイではないから。魯迅は「ドレイとドレイの主人はおなじものだ」といっている。「暴君治下の臣民は暴君よりも暴である」ともいっている。……ドレイがドレイの主人になることは、ドレイの解放ではない。しかしドレイの主観においては、それが解放である。このことを、日本文化にあてはめてみると、日本文化の性質がよくわかる。日本は、近代への転回点において、ヨーロッパにたいして決定的な劣勢意識をもった。(それは日本文化の優秀さがそうさせたのだ。)それから猛然としてヨーロッパを追いかけはじめた。自分がヨーロッパになること、よりよいヨーロッパになることが脱却の道であると観念された。つまり自分がドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした。あらゆる解放の幻想がその運動の方向からうまれている。そして今日では、解放運動そのものがドレイ的性格を脱しきれぬほどドレイ根性がしみついてしまった。解放運動の主体は、自分がドレイであるという自覚をもたずに、自分はドレイでないという幻想のなかにいて、ドレイである劣等生人民をドレイから解放しようとしている。……
 こうした主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。出発点で放棄している。放棄したことは、日本文化の優秀さのあらわれである。(だから日本文化の優秀さは、ドレイとしての優秀さ、ダラクの方向における優秀さだ。)抵抗を放棄した優秀さ、進歩性のゆえに、抵抗を放棄しなかった他の東洋諸国が、後退的に見える。魯迅のような人間が後退的な植民地型に見える。日本文学の目で見ると中国文学がおくれて見える。そのくせ、おなじように抵抗を放棄しなかったロシア文学は、おくれて見えない。つまり、ロシア文学がヨーロッパ文学を取り入れた面だけが見えて、ヨーロッパ文学に抵抗した面は見逃されている。ドストエフスキイにおける頑強な東洋的抵抗の契機は見逃されている。……
 …………
 魯迅のような人間がうまれてくるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない。ヨーロッパの歴史家がアジア的停滞とよび、日本の進歩的な歴史家がアジア的停滞(!)とよんだような、おくれた社会のなかからでなければ出てこない型である。ちょうど、ドストエフスキイがロシア的なおくれを条件にしているように。あらゆる進歩への道が閉ざされ、新しくなる希望がくだかれたときに、あのような人格がかたまるのだろう。古いものが新しくなるのではなく、古いものが古いままで新しい、というぎりぎりの存在条件をそなえた人間が可能になるのだろう。魯迅のような人間は、進歩の限界をもたぬヨーロッパの社会のなかからは出てこぬだろう。また、進歩の幻想のなかにいる日本でもうまれぬだろう。うまれぬだけでなく、理解さえもできぬだろう。」
(竹内好「中国の近代と日本の近代」)
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