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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<別のアレンジメントを証明する遊牧民

「遊牧民を運動によって定義するのは誤りである。遊牧民とはむしろ動かない者である、ということを示唆したトインビーは実に正しかったと言わねばならない。移民たちが荒廃したり不毛になったりした環境から立ち去るのに対して、遊牧民とは立ち去らない者、立ち去ることを欲しない者であり、森が縮小し草原あるいは砂漠が増大したところに産み出された平滑空間にしがみつき、この挑戦に対する応答として遊牧生活を発明する者なのだ。遊牧民が動くことは言うまでもないが、彼は座っているのであり、動いているときほど彼がどっしりと腰を据えているときはないのである(鞍の上に正座して早足で駆けるベドウィンの民は、「素晴らしい平衡感覚による芸当」を示す)。遊牧民は待つすべを知っている。彼は無限の忍耐力を持っている。動かないことと速度、緊張症と迅速さ、「停滞の過程」、過程としての停滞、こうしたクライストに見られる諸特徴はすぐれて遊牧民のものである。それゆえ速度運動を区別する必要がある。運動はいくら速くてもそれだけでは速度ではないし、速度はいくら遅くても、たとえまったく動かないとしても速度なのだ。つまり運動は外延的であり、速度は内包(強度)的なのである。運動は「一つ」と見なされる物体がある一点から他の一点へと移行することであり、その場合の物体がもつ相対的性格であるのに対し、速度は、ある物体の還元不可能な諸部分(原子)が渦巻状に平滑空間を占め、あるいは満たし、いかなる地点にも出現しうることであり、こうした場合の物体がもつ絶対的性格である(したがって、相対的運動ではなく、その場で強度として行われる精神の旅が語られることは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である)。要するに、さしあたって次のように言うことができよう。ただ遊牧民のみが絶対的運動すなわち速度をもつのであり、渦巻運動ないし回転運動は本質的に戦争機械に属するものである。
 このような意味で、実際は地点、行程、領土を持っているにもかかわらず、遊牧民はそれらを持たない、と言うことができる。遊牧民がすぐれて〈脱領土化したもの〉と呼ばれうるのは、まさしく遊牧民においては再領土化は、移民の場合のように脱領土化ので行われるのではなく、また、定住民の場合のように他のものの上に行われるのでもないからである(定住民は所有制度や国家装置といった他のものに媒介された大地に関係するから)。逆に、遊牧民にとっては脱領土化が大地への関係そのものを構成するので、遊牧民は脱領土化そのものにおいて再領土化するのである。つまり、大地そのものが脱領土化する結果、遊牧民はそこにこそ領土を見出すのである。このとき、大地は大地であることをやめ、単なる地面ないし支持面になろうとする。また、大地は包括的かつ相対的に脱領土化するのではなく、まさに森林が後退し草原や砂漠が広がっていく明確に限定された場所で、脱領土化するのである。ユバックが正当に言っているように、遊牧生活は、全地球的規模の気候の変化(それはむしろ移住に結びつくものであろう)によってよりも、「局所的気候の変動」によって説明される。平滑空間が形成され、あらゆる方向に向かって侵食し増大しようとするときには必ずそこに、大地の上に、遊牧民がいる。遊牧民はこうした場所に住み、そこに留まり、みずからこうした場所を増大させるのだ。この意味で、遊牧民は砂漠によって作られるのと同じ程度に砂漠を作るのである。遊牧民は脱領土化のベクトルであり、たえず針路や方向が変化する一連の局所的操作によって、砂漠に砂漠を、草原に草原をつけ加えていく。砂漠はいわば定点としてのオアシスだけを含んでいるのではなく、局所的雨量に応じて移動する一時的なリゾーム的植物群も含んでいるのであり、これが遊牧民の行程の方向変化を規定するのである。氷原も砂漠とまったく同じように記述することができる。──天と地を分かついかなる線もなく、介在する距離も遠近法もなければ輪郭もなく、視界はかぎられているものの、もろもろの地点や対象の上にではなく、さまざまな此性つまり諸関係のさまざまな集合(風、雪や砂の波動、砂の響き、氷の割れる音、砂と氷の触覚的性質)の上に成り立つ極めて繊細なトポロジーがそこには存在し、それは視覚的というよりもむしろはるかに音響的空間であり、触覚的、あるいはむしろ「視触覚的」空間である……。」
(ドゥルーズ+ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)
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