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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<別のアレンジメントを証明するクライスト=榎本俊二

「アレンジメント〔自律編成体〕は情念的であり、欲望の編成である。欲望は、自然的あるいは自然発生的に決定されるものではなく、もっぱらアレンジし、アレンジされ、組み立てられて存在する。アレンジメントの合理性や能率性も、それが活動させるさまざまな情念や、アレンジメントを構成するとともにアレンジメントによって構成されるさまざまな欲望なくしては存在しえない。ドゥティエンヌが示したように、ギリシアの重装歩兵密集部隊は大きな価値転換と不可分であり、さらに欲望と戦争機械の関係を根本的に変える情念の変異と切り離しえない。これは、人間が馬から降りて、人間と馬の関係が歩兵のアレンジメントにおける人間同士の関係に席を譲るケースの一つである。農民兵や市民兵の到来を準備するこの歩兵のアレンジメントにおいて、戦争機械のエロス全体が変化し、集団の同性愛的エロスが騎兵の動物的エロスにとって代わろうとする。なるほど、戦争機械を自分のものにしようとするたびに、確かに国家は市民の教育と労働者の養成と兵士の教練を近づけようとする。しかし、すべてのアレンジメントが欲望のアレンジメントである以上、問題は、戦争と労働のアレンジメント〔自律編成体〕はそもそも性質の異なる情念を動員するのではないかということである。情念とは欲望の現実化したものであるが、それはアレンジメントによって異なる仕方で現実化される──アレンジメントによって、正義も残酷も憐憫等々も異なるのである。労働の体制は〈形式〉の組織や発展と不可分であり、主体の形成はこの組織と発展に対応するものだ。これが「労働者の形式」としての感情の情念体制である。感情は、物質とその抵抗の評価、形式とその発展の感覚、そして力とその移動の経済を含み、いわば重々しさをともなっている。しかし戦争機械の体制は、むしろ情動の体制であり、情動は、動体そのものに、つまりさまざまな速度と、諸要素間の速度の合成のみにかかわる。情動は感動の素早い放出であり、反撃であるのに対し、感情はつねに移動し、遅延し、抵抗する感動である。情動は武器と同様に投射されるものであるのに対し、感情は道具のように内向的 introceptif なものである。武器との情動的な関係というものが存在することを、さまざまな神話だけでなく、武勲詩や騎士道物語や宮廷風恋愛物語が証言している。武器は情動であり、情動は武器である。この観点から見ると、絶対に動かないことや純粋状態のカタトニーも、速度ベクトルの一部分であって、動作の化石化と迅速な運動を統一するこのベクトルの上に乗っているのだ。騎士は馬の上で眠っている、そして突然矢のように出発する。こうした突然のカタトニー、失神、宙吊り状態と戦争機械の最高速度を最も見事に組み合わせたのはクライストであった。そして彼はわれわれを、技術的要素の武器への生成変化と同時に、情念的要素の情動への生成変化に(ペレンテジアの等式に)立ち会わせるのである。」
(ドゥルーズ+ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)
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