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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<脱出の動機

「不気味な文章である。べつに文章自体は難解ではない。しかし、この認識を自分自身に適用しようとすると絶句するほかなくなる。たとえば私はこの文章を読んでいるのか。読むことができるのか。都合のいいように解釈し、自分を安心させ、その核心を奪っているだけではないのか。引用文に限らない。何を読もうが、何を書こうが、何を見ようが、何に触れようが、それが自意識の確認でしかないとしたらどうか。人間は所詮そのようにしかありえないとは嘯けない。そう嘯いた瞬間に何かを致命的に手放す感触がある。このような自問こそが罠なのだと切断することもできない。自己言及を放棄し、平板な他者との交流を目指した者たちは、いずれも、貧弱な自意識を保守しただけだった。……しかし、ナイーブな反省は意識の隘路に嵌まり込むだけで、かえって外部への回路を閉ざすことはわかりきっている。どうすればいいのか。
 …………
 ……さらに踏み込もう。かりに「強い視差」が生じてもそれが自己を含めた関係全体への問いに至らず、単に一過的な不快としてやり過ごされる場合もある。むしろその方が多いだろう。柄谷はしばしば、録音された自分の声を聞いたときの不快感を視差の例に挙げるが、そのような不快さは慣れることも忘れることもできる。対象化した自己の記述に夢中になり、それを行う「私」への問いが消える光景もありふれている。戦後の吉本隆明がそうであったように、単に「すべてを疑う」という決意──と言いつつ疑っている自分だけはけっして疑わない自己絶対化──に行き着くこともある。ならば自己の確実性の揺さぶりが、その構造を解析し尽くそうとする「超越論的動機」へと全面的に練り上げられるためには、視差だけではなく、何かべつの力が働く必要があるのではないか。」
(大澤信亮「柄谷行人論」)
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