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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<前-法律的トラウマ

「したがって、法にたいする「外的」な服従は、外的な圧力、いわゆる非イデオロギー的な「暴力」に屈することではない。それは、それが「理解不能」である限りにおいて、「指令」に従うことである。理解不能とはすなわち、それが「外傷的」「非合理的」性格を保持しているということである。このように、外傷的で統合されえないという法の性格は、権威を隠しているのではまったくなく、権威の決定的条件なのである。これは、精神分析における超自我なる概念の基本的特徴である。すなわち超自我とは、外傷的で「無意味」だと感じられる命令である。つまり、主体の象徴的な世界には統合されえないのである。しかし、法が「正常」に機能するためには、「習慣は、それが受け入れられているというただそれだけの理由で、公正さそのものである」という外傷的な事実──つまり法はそれが発せられる過程に依存していること、あるいは、ラクラウとムフが導入した概念を用いれば、法が基本的に偶発的だということ──は、法には「意味」があり、法は正義、あるいは真理(あるいは、もっと現代的な言い方をすれば、機能性)という根拠にもとづいているという、イデオロギー的な想像上の経験によって、無意識の中へと抑圧されなければならない。
 …………
 注目すべきことに、カフカの『審判』の、Kと僧(教誨師)の会話の終わりのところには、これとまったく同じ公式が見られる。

「その意見には賛成しかねます」とKは頭を振って言った。「なぜなら、もしその意見に賛成すれば、門番の言ったことをすべて真実と考えなくてはなりません。ところが、そんなことはありえないということを、あなた自身がくわしく説明してくれたじゃないですか」。「いいや」と僧は言った。「すべてを真実だなどと考えてはいけない。必然だと考えなければいけないのだ」「気の滅入るような結論ですね」とKは言った。「虚偽が普遍原理にされているんだから」
このように、「抑圧」されているのは、法の曖昧な起源などではなく、法は真理としてではなく必然的なものとして受け入れられなければならないという事実、法の権威には真理は含まれていないという事実なのである。法の中には真理がある、と人びとに信じ込ませる必然的な構造的幻想は、転移のメカニズムをそっくりあらわしている。転移とは、法という愚かで外傷的で辻褄の合わない事実の背後には「真理」「意味」があるという仮定である。言い換えれば、「転移」とは信仰の悪循環のことである。どうして信じなければならないかという理由は、すでに信じている者にたいしてしか説得力をもたない。」
(スラヴォイ・ジジェク「「法は法」」)
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