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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<前-国家的トラウマ

「アルチュセールの理論の弱点は、アルチュセールも、また彼の一派の誰ひとりとして、国家のイデオロギー装置と、イデオロギー的呼びかけとの繋がりを解明できなかったことである。すなわち、国家のイデオロギー装置はいかにしてみずからを「内在化」するのか。それはいかにして、ある大義へのイデオロギー的信仰という結果や、主体化とかみずからのイデオロギー的立場の再認識といった相互連関的な結果を生むのか。すでにみてきたように、この疑問にたいする答えはこうだ──国家装置という外的な「機械」は、それが、主体の無意識的経済において、外傷的で無意味な命令として受け取られるときはじめて、その力を行使するのである。アルチュセールは、イデオロギーの象徴的機械が「意味」と「真理」のイデオロギー的経験へと「内在化」される、イデオロギー的呼びかけの過程についてしか語らない。だがわれわれはパスカルから以下のことを学んだ。すなわち、この「内在化」は、構造的必然から、けっして全面的には成功しない。つねに積み残し、残滓がある、つまり外傷的な非合理性や無意味性が染みのようにそれに付着している。この残滓は、主体がイデオロギー的命令に全面的に服従するのを邪魔するどころか、それの前提条件にほかならない。無意味な外傷というまさにこの統合されえない余剰こそが、法に無条件の権威を授けるのだ。言い換えれば、この外傷こそが、イデオロギー的な意味を避けるかぎりにおいて、イデオロギー特有の、イデオロギー的な「意味の享楽」(jouis-sense)とでも呼びうるものを支えているのである。
 この点からしても、われわれが先にカフカの名を引き合いに出したことは偶然ではない。このイデオロギー的な「意味の享楽」に関して、次のように言うこともできよう。すなわち、カフカはアルチュセール以前に一種のアルチュセール批判を展開し、「機械」とその「内在化」の間のギャップの正体を教えてくれる、と。カフカの「不合理な」官僚制、ある盲目的で、巨大で、ナンセンスな装置は、いっさいの同一化、いっさいの再認──いっさいの主体化──が生じるに主体が直面する国家のイデオロギー装置ではなかろうか。それでは、われわれはカフカから何を学びうるのか。
 何よりもまず、カフカの小説は呼びかけから始まる。カフカ的な主体は、神秘的で官僚的な存在(法、城)から呼びかけられる。だが、その呼びかけはいささか異様な形をしている。それはいわば、同一化/主体化抜きの呼びかけなのである。それは、われわれが自己を同一化できるような大義をあたえてくれない。カフカ的な主体は自分が同一化できるような特性を必死に探しまわる。だが、彼には、自分がなぜ「他者」に審問されるのかわからない。
 呼びかけに関するアルチュセールの説明が見落としているのはその点である。同一化や象徴的な再認/誤認に囚われる前に、主体は、「他者」の中心にある欲望の逆説的な対象-原因(α)、「他者」の中に隠れていると思われるこの秘密を通して、「他者」に囚われるのである。」
(スラヴォイ・ジジェク「アルチュセールの批判者カフカ」)
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