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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<夢=現実

「ラカンの〔夢〕解釈はその正反対である。主体は、外的な刺激が強くなりすぎたために〔夢から〕目覚めるのではない。それとはまったく別の理由で目覚めるのである。まず彼は、現実に目覚めるのを避けるために、睡眠を長引かせるようなストーリーをもった夢をつくりあげる。ところが、彼が夢の中で出会うもの、すなわち彼の欲望の現実、ラカンのいう〈現実界〉──この場合でいえば、父親の根本的な罪悪感を暗示している「ぼくがやけどしているのがわからないの?」という子どもの父親にたいする批難の現実──は、いわゆる外的現実そのものよりも恐ろしい。だから彼は目覚めるのだ。恐ろしい夢の中で姿をあらわす、自分の欲望の〈現実界〉から逃れるために。眠り続けるため、自分の盲目を維持するため、自分の欲望の〈現実界〉へと覚めないようにと、彼はいわゆる現実の中へと逃げ込むのである。懐かしい一九六〇年代のヒッピーのモットーをもじって、こう言うことができるだろう──現実は、夢に堪えられない者たちのためにある、と。「現実」とは、われわれが自分の欲望の〈現実界〉を見ないですむようにと、空想がつくりあげた目隠しなのである。
 …………
 この問題には、われわれは夢の中においてのみ真の覚醒に、すなわちわれわれの欲望の〈現実界〉に接近するのである、というラカンのテーゼからアプローチしなければならない。われわれが「現実」と呼んでいるものの最後の支えは空想である、とラカンはいうが、けっしてこれを、「人生は夢にすぎない」とか「われわれが現実と呼んでいるものは幻覚にすぎない」といった意味に解釈してはならない。このような、現実は一般化された夢あるいは幻覚であるといったテーマは、よくSF小説に見受けられる。たいてい物語は主人公の視点から語られる。主人公はしだいに、自分のまわりにいる人びとがじつは人間ではなくサイボーグとかロボットの類であり、本物の人間のように行動にしているにすぎないのだ、ということに気づき、戦慄する。いうまでもなく、この種のSF小説の結末では、主人公が、自分もまた本物の人間ではなくサイボーグか何かであることを知る。このような一般化された幻覚はありえない。……
 反対に、すべては鏡に映った幻の戯れである、などといったふうには絶対に還元できないような、固い核、残滓がかならずある、というのがラカンのテーゼである。ラカンと「素朴なリアリズム」の違いは、ラカンにとっては、われわれがこの〈現実界〉の固い核に接近できる唯一の場所は夢である、ということである。夢から覚めたとき、われわれはふつう「あれはただの夢だったのだ」と独り言をいい、それによって、覚醒時の日常的な現実においてわれわれはその夢の意識にすぎないという事実から目をそらす。われわれは夢の中においてのみ、現実そのものにおけるわれわれの活動と活動様式を決定する空想の枠組みに接近できたのだ。」
(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)
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