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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<徒労の詩学

「「楽しみがな」いと「楽しみもない」という認識〔「人間、楽しみがなかったら生きててもなんの楽しみもない、てなことを申しますが……」──町田康「人間の屑」〕は、同語反復のようでいて、というか確かに同語反復なのだが、それでもなおかなりに致命的であるのは、この楽しみというのは、例えば世間で仕事をしたり、勤勉さというような姿勢に馴れることのできる人間が、たまの息抜きとして味わう「楽しみ」などではなく、つまりは実体的な「苦しみ」のごときものに対比されて把まれるものではなく、要するに救いとかいったものではない、もっと茫漠とした無為と反復のなかで見つけだされるもので、それがゆえに町田さんの作品における「遊び」というのは、いわゆる「働くこと」に対する余暇、レクリエーションとしてのものではない、何もしない、毎日が隔てのない、休暇の連続であるような人生を遊び尽くさなければならない徒刑のごときものであって、真面目であるのに、というよりも真面目であるからこそ、努力とか勤勉さに何らかの期待を抱くという甘えや自堕落(という云い方をするのもおかしいけれど、努力すれば何とかなるとか、頑張ったのだから仕方がないというのは、許し難い自堕落な発想ではありませんか)を受け入れることの出来ない者の営為なのである。そこに、町田氏の可能性を見いださざるをえないのは、町田氏の厳しい認識というのは、人間性が進んでいくとか、社会が改善されていくとかいった楽観が秘めている度し難い甘えを拒否する──それが何よりも、音楽というジャンルの革新とか未来といった思い込みが、商売とナルシシズムと明き盲の混在した汚らしい期待にすぎないことを示したパンク・ロックの精神(というようなものかどうかは大いに疑問だが)なのだが──姿勢に、近代日本文学が、逃し続けてきた、……成熟と洗練への可能性を感じさせるからで、それはつまり何よりも、未来だの、明日だのに期待する無責任と訣別して、来るべき明日などはないのだ、という閉ざされた状態のなかで、生き、認識をし、書く、つまりは「遊ぶ」という事とつながっているからである。」
(福田和也『喧嘩の火だね』)
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