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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説以後

「映画は──……極限まで幅広い観客層を対象に、途方もない製作予算を回収できるよう作り上げられる商品です。映像作家が好きな時に好きなように作れるものではなく、企画を立て、資金を調達し、夥しいキャストやスタッフを雇い入れ、セットを組み、ロケ許可を取り、撮影し、特殊効果を施し、編集して漸く出来上がるものです。公開までを考えれば、更に巨大で重いものを動かすことだ、と言っていいでしょう。……その重い表現媒体においてさえ、表現様式の変化があれほど明白に観察できる訳ですし、更に言うなら、商業作品という枠組みが強力であるにも拘らず、そうした表現が可能である訳です。『アイランド』のような取るに足らない娯楽作品においてさえ、ジェイソン・ボーンもののような、心ある人々が筋肉と爆発だけの阿呆映画と軽蔑しかねない作品においてさえ、新しい様式はどんどん取り入れられ、観客も特には抵抗せずに受け入れます。一口で言うなら、ダイナミックであり、表現手段として生きている訳です。
 一方、小説はどうでしょう。紙やペンや鉛筆と時間さえあれば、誰でも今日にも書き始められるものであるにも拘らず、その様式は多くの場合、十九世紀に留まっています。二十世紀前半の大胆な試みも一般に普及することはなく、多くの小説は未だにエミール・ゾラの様式で書き続けられている、と言っていいでしょう。ポップカルチャーの隆盛は主題においては幾らかの変化を齎しましたが、様式は依然十九世紀のままであり、時に一歩進んだとしてのレーモン・ルセールを超えることはなく、キュービズム以降のミメーシスの崩壊と抽象絵画の出現にさえ追いついておらず、誰よりまず鑑賞者がそれを拒みます。小説は、ある意味、全くの「大ドイツ美術」状態だと言っていいでしょう──退廃美術としてパージされた両大戦間当時の現代美術に代わる美術の規範としてナチス時代に推奨された、今となってはキッチュな魅力もないことはない偽十九世紀美術です。小説家としてこういうことを言うのは心苦しいのですが、ことによると小説は既に死んでおり、あとは規範的な様式の中でどれだけ練り上げられるかだけが問題の、伝統芸能的なものになってしまっているのかもしれません。」
(佐藤亜紀『小説のタクティクス』)
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