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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<虐殺と全体性

「先住民の王がスペインの現実を理解した以上にコルテス〔エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ〕はアステカの社会を理解していたのだということを念押しした上でトドロフはまずこう問うていた。理解(comprendre)することが土地・黄金・掠奪(prendre)することに通じたのはなぜなのか。この問いには次の問いが続く。掠奪することが殲滅(detruire)することに通じたのはなぜなのか
 第一の問いにトドロフはこう答える。スペイン人は先住民を認識すべき対象(object)として理解したにすぎない。これは、それに語りかけるべき他者、すなわち対話における主体(subject)として認めることでは決してなかった、と〔『他者の記号学 アメリカ大陸の征服』〕。しかし、そう答えても、直ちに続く第二の問いがトドロフを捉えて放さない。彼の念頭にあるのは、「二〇世紀のいかなる大虐殺」も「匹敵しない」と憚ることなく記した、十六世紀の本源的な暴力だ。「西暦一五〇〇年における全世界の人口はおよそ四億、うち八〇〇〇万のうち残っているのは一〇〇〇万である。話をメキシコにかぎっても、征服前の人口は約二五〇〇万人、一六〇〇年には一〇〇万人である」。
 「人類史上最大の民族虐殺」が起きたのは十六世紀なのである。なぜか。トドロフがコロンブスによる新大陸発見の意味として提示した次の洞察は注目に値する。新大陸が発見されたことにより「世界は閉じられ」有限なものとなった。果てしない大地が球として閉じたのだ。今日、グローバリズムという名で呼ばれている諸現象の起源がここにある。以降、スペイン人を始めとするヨーロッパ人は「自分たちがその一部分となっている全体」にとらえられてゆく。すると、(1)個体は主体(たとえば帝国という「全体」の場合なら臣民)として、つまり主体的にその部分としての役割を果たすようになる。アメリカ先住民の俗語のアルファベット化は、彼らに自らを部分として「全体」に主体的に組み入れさせる装置だったのである。(2)「全体」の包摂された者、本国(ここ)の者から見る限り、本国と新大陸(そこ)とを包摂するこの「全体」が均質空間と見える。また、新大陸の先住民との諸関係が本質において対称的であるように見える。(3)むろん、実際には、本国と新大陸との間には断層があり、二つの空間は均質ではない。両者の関係も非対称的かつ敵対的である。しかし、「全体」の中で「自分たちがその一部となっている」という自覚を主体化した者たち(たとえば、エスパニアの臣民たち)には、その現実が死角に隠れる。したがって、新大陸の先住民が自分たちと対等の存在であるという認識を保持したまま、しかも実行においては彼らから容赦なく掠奪し彼らを殲滅するということが起こり得る。人間の獣性だけでは「人類史上最大の民族大虐殺」は起こらなかった。それは彼らが「全体」の中に置かれていたから起こったのである。」
(山城むつみ「ベンヤミンのメキシコ学──運命的暴力と翻訳」)
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