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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<まなざす=まなざされる

「ピカソの『アルジェの女たち』が史上最高額で落札された。この絵について、なんとなく思ってきたことをメモしてみる。
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『アルジェの女たち』http://ayay.co.uk/backgrounds/paintings/pablo_picasso/women-of-algiers-after-delacroix-1955.jpg
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これは、『アヴィニヨンの娘たち』の変奏ではないだろうか。どちらも不思議に引き込まれる絵である。いささか妄想に近いが、僕はこの二つの絵には「鏡」が描き込まれていると思っている。
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こちらが『アヴィニヨンの娘たち』http://www.cgfaonlineartmuseum.com/picasso/picasso2.jpg
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『アルジェ』では奥の女性と、手前右側の女性は、鏡像ではないか。同様に、『アヴィニヨン』では左端と右立ちの女性が鏡像ではないか。どちらも、平面の絵の中に、平面を捩じ曲げる鏡の空間が挟み込まれている。
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さらに、『アルジェ』と『アヴィニヨン』では、彼女たちのまなざしにも共通性を感じる。どちらも、絵をまなざした瞬間に、絵を安全な位置から観察することができないような、異様な、引き込まれる感覚をおぼえるのだ。彼女たちは絵の外側にある〈私〉をまなざしている。絵の外部は安全地帯ではない。
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この、絵の中からのまなざしは、描き込まれた鏡によって、強烈さを増す。つまり、絵のなかに三次元の空間があるように、絵と絵の外ともつながる三次元の空間がある、つながる。〈私〉が必然的に立ち会う、壮大で超越的な時空の通路が開くのを感じざるをえないのだ。
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『アヴィニヨン』は、美術批評において、女性の表象、しかもオリエンタルな表象において、しばしば倫理からの批評にさらされてきた。だが、僕の感覚からすれば、これら二つの絵を眼前にすると、他人ではない、〈私〉自身がその場に立ち会い、彼女たちのまなざしに厳しくさらされ倫理を問われるのだ。
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ピカソが何を思いこれらの絵を描いたのか。これもいささか妄想ではあるが、彼がベラスケスの『ラス・メニーナス』にこだわりぬいたことと、同じ根を持っているのではないか。フーコーが『言葉と物』で読解しているように、『ラス…』は交錯する視点の操作による権力関係への問いでもある。
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僕が知らないだけかもしれないが、ピカソへの批評において、以上のような感覚、思考を読んだことがない。いまだピカソは視られていない、そう思うゆえんである。
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ピカソ批評として、僕がどうしても承服しがたいものとして、平倉圭の『アヴィニョンの娘たち』論がある。天才的な批評家だとも思うが、ピカソの可能性を殺しているとしか思えないんだ。」
(nos/unspiritualized「Twitter拾遺」)
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