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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<貨幣フェティシズム ⇔ 商品フェティシズム

「アドルノやベンヤミンの友人でフランクフルト学派の近傍にあり、また、カッシーラーのもとで学んだアフルレート・ゾーン=レーテルは、廣松〔渉〕と同じく、認識論の「構成的契機」に歴史的かつ社会的契機を導入しながらも、それを「協働的諸関係」や「共同主観性」に一般化することなく、階級的ヘゲモニー関係においてとらえようとした(『精神労働と肉体労働』寺田・水田訳)。それは、「商品」ではなく「貨幣」を問題化することでもある。「私はアドルノやベンヤミンとの接触のなかで、(カントの──引用者注)超越論的主観の概念を(中略)文字通り貨幣の資本機能の物神概念として《確認》した」と、ゾーン=レーテルは言う。……これは、廣松の『資本論の哲学』(七四年)が商品論に終始していることに比しても、対蹠的な視点であると言わなければならない。日本のマルクス研究の文脈においては、宇野弘蔵の「価値形態論」(商品論)が主導的に議論の対象だったということもあり、商品から貨幣を導出するという手続きが一般的である。マルクスがそうであったように、貨幣フェティシズムの秘密は、商品フェティシズムに含まれていると見なされるのである。これに対してゾーン=レーテルは両者を峻別し、前者のヘゲモニーを強調するところに、その特異性がある。
 一般的に社会的な共同的=協働的諸関係を問題化しようとする場合、資本制では労働の生産物は商品としてあらわれるのだから、まずはそれが分析対象となるかに見える。事実、『資本論』のマルクスも商品論を冒頭に据えている。しかし、精神労働と肉体労働(手労働)の分離の解決という古典的な(そう、あまりに古典的な)難問から出発するゾーン=レーテルは、抽象的な科学的認識がいかに可能になったかを歴史的に探究して、その起源を古代ギリシアにおける貨幣の成立にさかのぼるのである。
 …………
 廣松渉もまた、東京大学への再就職は科学哲学専攻としてであったし、晩年にいたるまで、「近代の超克」を主張していた。廣松におけるそれは、近代的「主観-客観」図式の超克というところに集約される。つまり、主観と客観の分離といったかたちで物象化されている認識論的枠組みを、その基底である共同的=協働的な社会的諸関係の変革をとおして改変するということであり、それ自体として理論的抽象を出ることはない。具体的に何をどうやっていいか分からないのである。その意味で、物象化論へと進み出た廣松理論は、危機を怒号した岩田弘以上に空論的と受け取られた。……その理由の一端は、すでに明らかであろう。廣松のフェテイシズム批判が主要に商品に向けられることで、貨幣によって担保されている「超越論的主観性」の抽象性をおびやかさないのである。
 貨幣形態が超越論的主観性の謎であるとすれば、反科学や近代合理主義批判が叫ばれもした「六八年」において、むしろ、ゾーン=レーテルの友人であったヴァルター・ベンヤミンの「復権」が、その意味で意義深いことであった理由も明らかになる。『パサージュ論』(今村ほか訳)その他によって知られるように、ベンヤミンは諸商品に対してフェティシズム的な執着の感情を抱いていた。……もちろん、ルカーチの『歴史と階級意識』を継承するベンヤミンが目論むのは神話からの覚醒であり資本主義批判である。しかし、「目覚めを喚起しようとする最初の刺激は、かえって眠りを深くする」とでもいうかのように、ベンヤミンの商品についての記述は、あたかも現代の文化主義者の濫觴のごとき、フェティシズム的な相貌を帯びる。
 何故か。フェテシズム的に商品に接することによってのみ、商品としてあらわれているものの歴史性が開示され、「時間限定なし」(ゾーン=レーテル)の抽象的な貨幣空間がほころびを見せはじめるからである。スタンプの押された古切手のみを蒐集したという著名なエピソードからも知られるように、ベンヤミンは、「時間限定なし」の抽象的な空間を支えるメディア(この場合は切手)のなかにも歴史性を導入しようとした。ベンヤミンの市場と商品への惑溺は、商品のなかに時間と歴史を読み込むための擬態である。それは貨幣という抽象的なメディア空間に亀裂を入れるということと同義であり、フェティッシュ(貨幣)に対するフェティシズム(商品)的な「否認」なのである。」
(スガ秀実『吉本隆明の時代』)
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