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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<後ろ向きの願望成就

「語り伝えられるところによれば、ハシディズムを信奉するある村で、安息日の終わる晩、とあるみすぼらしい食堂にユダヤ人たちが腰をおろしていた。みな土地の人間だったが、ひとりだけ誰も知らない、まったくみすぼらしいぼろぼろのなりをした男が、奥のほうで暗い片隅にうずくまっていた。あれこれと雑談が交わされた。そのときひとりが、もし願い事がひとつ叶えられるならみんないったい何を願うと思うか、と言い出した。ある者は金を、他の者は娘婿を、三人目は新しい鉋台を願い、このようにして順にひと巡りしていった。みなが発言を終えると、残ったのは暗い隅のあの乞食だけになった。不承不承に、そしてためらいながら、彼は一座の質問に口を開いた。「もしそうなら、私は権勢の強い王となって広い国土を支配したい。夜は横になってわが宮殿で眠る。すると国境から敵が侵入してきて、明るくなる前にその騎兵はわが城の前にまで迫っている。抵抗のしようもなく、驚いて跳ね起き、服を着る時間さえなく、シャツ一枚で、私は逃げ出さねばならず、そして山や谷を抜け森や丘を越えて、休みなく昼も夜もなく駆けてきて、ようやくここのあんた方がいる隅のベンチにたどりついて救われたのならよかった。そんな風に私は願うがね」。訳が分からず他の者は互いに顔を見合わせた。「で、その願いで何が手に入るのかね」、とひとりが聞いた。「シャツが一枚」、というのが答えだった。
 この話はカフカの世界の内情へ深く通じている。いつかメシアが現われて正すことになるだろうもろもろの歪みとは、われわれの空間の歪みだけである、などとは誰も言わない。歪みはまちがいなく、われわれの時間の歪みでもあるのだ。カフカはたしかにこのことを、考慮に入れていた。そしてそのような確信から、彼の祖父にこう語らせたのだ。「人生は驚くほど短い。いま思い返してみるに、人生はわしにはひどく縮んだものに思えて、たとえばわしは、どうして馬で隣村まで行こうなどと、若い者が決心できるのかほとんど分からんのだ。不運な偶然はまったく考えんとしても、普通の、幸運に流れていく人生の時間が、そんな騎行には全然足りんのではないかと心配もせんでな」〔「隣村」〕。この老人の兄弟といえるのがあの乞食である。彼は「普通の、幸運に流れていく」人生においては何かを願う時間すら見出せないのだが、彼が自分の物語とともに入ってゆく逃走の、普通でない不運な人生においては、そもそも願いというものから解放されているのであって、願いというものと引き換えに成就を得るのである。」
(ベンヤミン「サンチョ・パンサ」)
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