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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<きみと世界とのたたかいでは

「〔ロバート・アルトマンの〕『ザ・プレイヤー』では、まったく絶望的であった状況にいた主人公は突如として状況を好転させ、本当に自分を愛してくれる人を捨て、取ってつけたようなハッピーエンドへと向かう。先に述べたように、これはまさに「取ってつけたような」映画の映画性に対するアルトマンの悪意に他ならないのだが、もう一つの側面を持っている。主人公は、ゲームの「プレイヤー」であることを全面的に受け入れたのである。そのルールを完全に承服し、盤上の駒となること。
 それに対し、『クインテット』の主人公は、ゲームの内部から出られないということでは同じであるが、それを最後まで承服しようとはしない。そのルールを理解し、「審判者」の言葉に従おうとはしない。彼はゲームに「勝利」するのであるがそれを喜びはせず、それを打ち捨てるという態度において、ゲームの「勝/負」構造そのものを打ち捨て、無化しようとする。きっと、彼がこの「勝利」を受け入れたなら、『ザ・プレイヤー』のような取ってつけたようなハッピーエンドが訪れたに違いない。しかし、彼はゲームの中で闘いはするが、独り、まったく希望のない「北」へと向かうのだ。
 その態度はアルトマンの態度とぴったり重なる。アルトマンもまた映画という盤上で、ハリウッドという審判者の元でゲームに参加してはいるが、他のあらゆる監督と異なり、そのゲーム、ルールを承服してはいない。彼はそのゲームで「勝利者」となるに充分な素質を持っている。が、あいもかわらずゲームの構造そのものに悪意を突き付けるような映画ばかりを尋常ならざるペースで作り続けている。アルトマンもまた、独り「北」へ向かっているのだ。ゲームな中で充足し、幸せなハッピーエンドを待ちながら生きるのでなく、呪われた者たちの怨念を背負い、たった独りの「蠅の王」としての生き方。それはきっととても寂しく孤独で、長く険しい道のりである。私はそのような生き方に、なにかそら恐ろしい、しかしとても人間的な魅力を感じる。ちっぽけな人間が世界に対抗すること、それはきっと不可能だろう。だからみんな諦めてゲームの中で笑ってる。あるいは自分たちがゲームの中でしか勝ち/負けできないことに気付かない。その彼方で一人北へ向かう人。私はそれこそが人間の勇気というものではないかと思う。未来の空虚、人間への絶望、世界への呪詛、そういったものを感じてどうしようもなくなった時、私はいつもこの世界のどこかにロバート・アルトマンがいて、映画を撮っていることを考える。」
(nos/unspiritualized「ロバート・アルトマン、あるいは蠅の王」)
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