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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<論理法学論考

平井 ……先ほどの星野先生のご発言は、「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」に言及しておられました。星野論文もこの点について詳細に論じられていますし、まずその点についての私の主張をあらためて述べたいと思います。田中さんもご発言の中に「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」を「トータルに視野に収めないと議論も合理的にできないのではないか」と言っておられますので、このことはそこにも関連すると考えます。
 星野先生の主張されるのは、「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」との区別を認められた上で(言わば理論的な区別自体を否定されたとは理解していません)、「法律論においては両者は密接に関連しており、これこそが法律論の特色であるといってよい」という点にあり、その例をあげておられます。私の用語法では、この二つのプロセスの区別を意識しない考え方を「心理主義」と呼ぶのですが、星野先生の主張は、法律論に関しては、言わば意図的ないし意識的に「心理主義」の立場を採用しようということですから、「強い心理主義」と呼んでよいでしょう。まず最初に指摘しておかなければならないのは、この二つのプロセスの区別が自然科学とそれ以外の分野との区別如何とは無関係でありまして、ある主張を(心理によってではなく)言明によって「正当化」しようとするときには、論理的には常に起こる問題であるということです。現に、法律学の分野でもワッサストロームがこの区別に依拠してリアリズム法学を批判していることは、すでに紹介したとおりです。まして、法律家が「議論」をするには言明を武器にするしかしかたがないわけですから、「議論」に従事するという側面に関する限り、法律家とは、この二つの区別が制度的に分離されていることを前提として仕事をしている人々だと呼んでもよいくらいなのです。被告人の権利とか顧客や会社や国の利益を何とかして守らなければならない、という心理的動機に導かれてある言明を「発見」するのは、法律家においてしばしば生じうることですし(なお、星野論文は、この例に対して「突拍子もない顧客の主張を守るべきではないから、これも『わくづけ』がある」と反論しておられますが、突拍子もない主張はもちろん「正当化」できず、敗れることになるわけですから結果としてそのような「わくづけ」を前提としていることは言うまでもありません)、制度的に保証されてさえいます(たとえば国選弁護の制度)。そして、そのような動機で「発見」された言明が法律論として通用するか(「正当化」できるか)というのはこれと全く別の問題であることは言うまでもありません。「強い心理主義」の立場は、こういう問題についてどう考えるのかお伺いしたいところです。「強い心理主義」ですから、論理的には、私が「心理主義」の極限形態としてあげた例(ある弁護士の法律論を、彼が元来「プロレーバー的」あるいは「プロ資本家的」であるとの理由で反論する、という場合)に接近しそうにも見えますが、もちろん星野先生は(そしておそらく誰もが)、このような例があってはならない旨強く主張しておられます(なお、星野論文は、「いったい誰が〔この例のようなものを〕主張しているのだろうか」と反問しておられますが、これは私の教室設例で、誰かが主張しているわけではありません。私が学生にこの例をあげたのは、「イデオロギー批判」やフロイト的「深層心理」を根拠とする主張がそのままでは法律論として通用しないことを示したいからです。逆に言えば、マルクスやフロイトの思想が法を要素とする西洋の思想的伝統に対するいかに大いなる反逆であったかを示したいからです)。このことと、例としてあげられているのが立法者意思説等であることとをあわせ考えると、我田引水的になるかもしれませんけれども、やはり私の分析が示したように、星野先生の「強い心理主義」は「学者中心主義」(なお、この語についてやや誤解があるように思われる点については、先に述べました)の帰結であるように思われてなりません。つまり、学者あるいは教師としての中立的解釈者の立場に立ち、かつ立法者意思あるいは論理解釈等を重んずる立場をとり、そこから条文を検討すると、おのずから解釈論が導かれ、それがそのまま「正当化」の根拠となるのだという考え方に由来すると推測されるからです。私が主張しているのは、定立された言明を武器として「議論」によって問題を解決するのが法律家であり、それを養成するのにどうすべきなのか、という観点からみると、このような「学者中心主義」ないし「心理主義」が有害であり、その除去のために「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」の区別から始めるべきだということですから、問題はあるいは根本的な見解の対立に帰着することになるのでしょう。そのことが明らかになれば、それはそれで有益だと思います。
 こう考えてきますと、正しい「発見」の方法がないのだという私の主張や、「正当化のプロセス」にあげる「利益考量論」の位置づけに対する星野論文のご批判の大部分(すべてではないと思いますけれども)は、「〔強い〕心理主義」に関する態度の差異のように思われますし、この点に立ち入るとあまりに細かくなりますので、省略させていただきます。
 …………
 ただし、「権威主義」という表現に関して一言させていただきます。私は「発見のプロセス」が自由な飛躍や創造の世界であって、「正しい発見」の方法など存しないと考えるものですから、「利益考量」や条文や判例の分析、立法者意思の探究のほかに「世の中にこんな不平等を許していいのか」という怒りとか、「何とかして憎いあいつを言い負かしてしまいたい」というようなあまり合理的とは言えない感情すら「発見」の動因としてすべて平等の資格をもつことを強調するわけです(ことにすべてに情熱を失ったかのように見える今の学生に対して)。したがって、立法者意思等を基準に「発見」の方法を説かれることの多い星野先生が、従うべき「正しい発見の方法」はあるのだと説かれているならば(私は仮定法であることを強調するためにジュリスト論文でも傍点を付しておきました)それは──価値中立的な意味で用いるつもりで──「権威主義」であろうと述べたわけですが、もちろん、そのような仮定は妥当しないというご主張ですし、いずれにせよ、「権威主義」というのは語感が悪いので、この語を用いたことについてお詫びしたいと思います。」
(瀬川信久×田中成明×平井宜雄×星野英一「法解釈論と法学教育」)
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