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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<論理法学論考2

星野 そうすると、Wを導き出すさいのBに条文以外のものが入っているのが平井説の特色になるのでしょうか。いままでわれわれが普通の解釈論といっていたものは、条文Aがあって、そこには善意とあるのに「無過失」の要件を付ける。その根拠はなにかを議論することですね。たとえばほかの条文でもこういうふうに解釈されたりしているとか(論理解釈)、日本民法では善意と言っている場合に、もともとはフランスのボンヌ・フォア(bonne foi)を記したものだから、この部分では、どうも無過失を含んでいるはずだとか(立法者意思)、取引安全で保護されるべき第三者は無過失者に限るべきだとか(価値判断)を論じていたのです。つまり、AからWを導くのが解釈論だと思っていたので、その方法を大別すると形式論、実質論となると考えるのですが、それでは平井さんとどこが違い、どこがまずいのでしょうか。
平井 私の特色でもなんでもなく、「議論」一般というのはそういうものだということで、条文の説明から出発するのは教師あるいは学者の立場を強調した考え方なのです。「形式論」「実質論」についてですが、それが「心理主義」と結びついているところが問題なのです。いまの例で申しますと、善意無過失に置き換える理由が、これこれしかじかだ、という言明の形になっているというのが重要なのです。もちろん、その言明の反論可能性が大きいかという問題、つまり「良い法律論」か「悪い法律論」かという問題が別個に生じ得ることは確かですが。しかし、ともかくすべて言明化されているということが大事なのです。当たり前だとおっしゃるかもしれませんが、戦後法解釈論の中には、できるだけ反論に耐えられるような言明によって法律論をすることがまず出発点であるという発想がない。それがないままに、実質論・形式論が出てきますと、学生側の誤解もあるのでしょうけれども、実質論と形式論を心理的過程と論理的過程とに対応させて考えがちになる。そうすると、「この場合には保護すべきだから、無過失の要件を入れよう。柔軟に解決できる」、「これはいかにも気の毒なので帰責事由を考えよう」という議論になってしまうのです。そうなると、類似した状況における他のいろいろな命題との間の整合性とか、それらとの論理的関係を考えたらどうだという議論に対して、もう太刀うちできない。くり返しますが、学生の側に誤解もあると思うのです。しかし、戦後の法解釈の中に、そういう誤解を生じさせるような要素がなかったかというと、あるのです。結論の「合理化」のための「法律構成」というような考え方の中に萌芽があり、その線で議論が延長されてくると、いまいった「非合理主義」の結論になってしまうのです。法律論は心理と分離した論理の問題だということが、十分に理解されていなかったのではないかというのが、私の問題提起なのです。
星野 その限りではあまり異論もないはずです。より普遍的なもの、より客観的なもので基礎づけなければ、そもそも解釈論は成り立たないわけです。「保護すべきだ」とか「気の毒」というのも、そういう客観的な価値判断でもありうるとはいえないでしょうか。なお、「利益考量論」というと、どちらか勝たせたほうがいいと思うものを勝たせるというような誤解が生じたのかもしれませんが、そういうことを言った人は全くなかったはずです。
平井 「勝たせたほうがいいと思うものを勝たせる」という趣旨でないことはわかっているつもりです。しかし、「利益考量論」は、最後は価値判断が決め手であると言います。そして、究極的な誰にも否定できない価値があって、具体的な価値とその究極的な価値との両方から出発して価値のヒエラルヒアを作っていき、その中で結論を出すというものでしょう。
 しかし「価値のヒエラルヒア」はできるものではないと思うのです。できるものではないという意味は、こうです。主観的につまり個人としての自分はこういう価値のヒエラルヒアを持っているということは、もちろんあるし、誰だって言えると思います。しかしそれを常に客観的に、つまり他人との間で共通の理解に達するような言葉で表現できる世界が存在するかというと、存在しない、というのが今言った意味です。法律家のやっている仕事を考えるとき、全く相対立する当事者で全く価値観の違う者が、それぞれ自分の価値観をぶつけ合うというのが出発点にならなくてはならない。
 法の解釈が、価値判断で決まるというのは、心理過程としては全くおっしゃるとおりで、私も全然異論がないのです。だから価値判断を軽視しろといったこともない。そして、法律家の仕事には、価値判断が働いているということは、みんなが承認していると思うのです。いかに「概念法学」を重んじる人でもそうだと思います。たとえばゲマイネレヒト時代、ローマ法源の解釈をめぐる論争は、あたかもラテン語の語句解釈のように見えますが、その当時のドイツにおいて、どういうルールが妥当なのかという結論をにらんで議論しているわけです。ある議論の結果が実際にどういうことになるのかについて関心をもたない法律家は存在しないという点ではおそらく、異論はない。したがって問題は、そのような価値判断を言明でどうジャスティファイするか、というところにあるわけで、「議論」というプロセスの中でそれを行うのが法律家の仕事ではなかったかと思います。くり返しになりますが、どういう価値判断が妥当かというのは、法律に限らずいろいろな場合にも問題となります。それを「議論」でジャスティファイするというところに、法律家特有の仕事があるのではなかろうかということを強調したいのです。
星野 問題は価値判断を心理過程というか、論理的なものというかにありそうです。価値をジャスティファイするのは上位の価値によるしかないのではありませんか。価値判断を大事だと言うことは、価値判断そのものをもう少し議論していきたいからです。たとえば、脳死の問題について、問題を分析して、どこまで意見が一致しているのか、どこからが違うのかをつきつめてゆく。意見が一致している限りでは、そこである価値が確認されたと言ってもいいのです。長期的に見ていけば、ある価値が確認されてそれ以後は後退しようがないという場合もあると思います。たとえば戦争はいけないということについては、ほぼ世界的に含意があると思います。では死刑はどうかとか、だんだん具体的な問題になりますが、基本的には人を殺してはいけないということも一致して認められた価値判断と思います。ただ、初めは、戦争はある程度やむを得ないのではないかとか、死刑はやむを得ないのではないかと言われていたところ、まず戦争に関してはいけないということになった。つまり、基本的価値について一致し、かつ具体的なものでも初めは一致しなかったものが、だんだん一致してゆくのが人間の歴史だと思います。
平井 人を殺すのはいけないという規範命題があるのはたしかですが、法律家にとって大事なことはかくかくの与えられた事実(D)の時に死刑にせよという主張(C)をするのはどうなのかという問題です。それに対して、抽象的な規範命題の存在は誰でも言えます。問題はそういう言葉で語られている内容がある解決すべき問題との関連でどうなるか、どう考えるかです。問題をコンフリクトするような言明や価値に置き直していく、抽象的には、みんなが一致して疑いもしないことの中に、コンフリクトを発見し、それを使って(「議論」して)解決していくのが法律家の仕事だと思います。
星野 人間の尊厳が誰にもいえるようになったこと自体、大変大事なことではないでしょうか。また、具体的にたとえば、死刑の例をとると、死刑はなるべくしないほうがいいという基本的な考え方をとるかどうかで当該事案の扱い方が違ってくると思いますが。
平井 ただ、いまの日本の刑法の下で、死刑を全く宣告できないということは認められない。これは刑法の条文がある限り、言語的表現が死刑の存在を意味しているという点では議論は分かれようがないですから、法律家として一致せざるを得ない結論になりますね。そこが一致するからこそ、いまの点とコンフリクトすることになり、したがって論点になるのです。」
(瀬川信久×田中成明×平井宜雄×星野英一「法解釈論と法学教育」)
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