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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<もう語ることはない2

「収容所から生き延びて戻ってきた人びと──そして今も戻ってくる人びと──には何も物語るべきことがなかったし、証言が真正であればあるほど、彼らは自分の生きたことを伝えようとしない、とはよく言われることである。……彼らには、アウシュヴィッツで、あるいはオマルスカで、自分が「より賢くも、より深くも、より善くも、より人間的にも、人間に対してより親切にも」ならなかった、ということがわかっていた──そして今も彼らにはこのことがわかっている。その反対に、彼らは裸に剥かれ、空っぽにされ、見当を失って出てきた。彼らはそんなことについて語りたいとは思わなかった。取るべき距離は取るにしても、自分自身の証言に対して疑念を感ずるということは、いわば、われわれにもあてはまる。最近の数年にわれわれが生きてきたことには、語ることをわれわれに許すものは何もない。
 …………
 自分自身の言葉に対する疑念は、公的なものと私的なものとの区別が意味を失うたびに産み出される。実のところ、収容所の住人たちは何を生きたのか? それは歴史的-政治的な一出来事(たとえば──ワーテルローの戦闘に参加した兵士と同様に)か、それとも厳密に私的な経験か? どちらでもない。アウシュヴィッツでユダヤ人だった者も、オマルスカでボスニア女性だった者も、政治的選択から収容所に入ったのではない。彼らのもつ、もっと私的で交流不可能なもののゆえに、つまりは血のゆえに、生物学的な身体のゆえに収容所に入ったのである。ところがいまやまさに、血と生物学的身体は、決定的な政治的判断基準の代わりとなっている。この意味で、収容所とはまさしく、近代の端緒をなす場である。すなわちそれは、公的な出来事と私的な出来事、政治的な生と生物学的な生とが厳密な意味で不分明になる空間である。政治的な共同性から切り離され、剥き出しの生へと(さらには「生きられるに値しない生へと)還元されてしまったために、収容所の住人は、実のところ、絶対的に私的な〔公的な属性をすべて奪われた〕人なのである。しかし、この住人は一瞬たりと、私的なものの中に逃げ場を見出すことができない。まさしくこの不分明の様相が、収容所に特有の不安を構成する。
 カフカは、こうしたたぐいの特有の場を正確に描写したはじめての人だったが、こうした場はそれ以来、完全にわれわれに身近なものになっている。ヨーゼフ・Kの物語を不安なものにもし滑稽なものにもしているのは、公的きわまる出来事──訴訟──が、逆に、絶対的に私的な事実として提示されており、そこでは法廷が寝室に隣りあっている、ということである。まさにこのことが、『審判』を預言的な書物にしている。」
(ジョルジョ・アガンベン「この流謫にあって──イタリア日誌 一九九二〜一九九四」)
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