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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<私的/公的の無自覚な混同

「まずはこの二種類の記憶について、ごく簡単に説明しておこう。意味記憶というのは、一般的な知識のことと考えてよい。これに対してエピソード記憶は、個人的記憶だ。いわゆる記憶喪失、つまり全生活史健忘で消えるのは、この「エピソード記憶」のほうで、意味記憶は障害されないことが多い。だから通常の会話もできるし、一般常識もほぼ保たれる。ただ、自分の個人的な情報だけが、すっぽり消えてしまうのだ。大西〔巨人〕が指摘する「歴史偽造の罪」とは、エピソード記憶によって意味記憶を無自覚に書き換えてしまう行為をも含んでいる。
 ここで『深淵』における、いつかの奇妙なエピソードを思い起こそう。主人公・麻田布満は、過去十二年間ぶんの「エピソード記憶」を失いながら、その十二年間に起こった「読書の記憶」が保持されていること。さらに重要なことには、麻田と妻・琴絵との「房事」において、失踪以前はしばしば求めていた、ある体位を麻田が要求しなくなり、それを琴絵から指摘されること。
 記憶喪失期間における「読書の記憶」は、意味記憶かエピソード記憶か。いずれの性質をも持ちうるがゆえに、これは意外なほどの難問である。同様に「体位」の記憶もまた、こうした分類にはなじみにくい。私が後者をことのほか重視するのは、まさしく「性」の領域こそが、「意味」にも「エピソード」にも還元されがたいという意味において、深く「歴史」に関わるものであるからだ。加えて、この領域における「外傷」が、全生活健忘や解離性同一性障害(多重人格)をもたらしやすいという臨床的事実もある。
 ……重要なのは、「意味」と「エピソード」の乖離をもたらすものが、しばしば「外傷」であるということだ。そして、「意味」と「エピソード」の差異に対する厳密な配慮こそが、歴史の意識にほかならない。これとは逆に、「意味」と「エピソード」の無自覚な混同が、非-歴史的な「俗情」の起源である。」
(斎藤環「外傷性の倫理」)
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