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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<寓話>>>>越えられない壁>>>>小説・2

「「展開する」という言葉には、しかし二重の意味がある。つぼみが展開して花開くとすれば、大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。そしてこの「展開」の第二のあり方が、寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにし、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うものなのだ。けれどもカフカの寓話は第一の意味において、すなわちつぼみが花になるように展開する。したがって寓話の展開の所産は、文学に似ているのである。このことはしかし、彼の作品が完全に西欧の散文形式に流れこんでゆくものではなく、教義に対して、ハガダーがハラハー〔ハラハーとは律法的な、ハガダーとはそれ以外の教訓的な、ユダヤ教の伝承〕に対するのと同じような関係を結ぶ、ということを妨げるものではない。カフカの作品は比喩ではないが、かといってそれ自身として受け取られることも望まない。それは引用したり注釈のために物語ったりできるような作りになっているのだ。だがわれわれは、カフカの比喩に付き添われ、Kの身振りや動物たちのしぐさにおいて注釈される、その教義を所有しているのだろうか。それはここにはない。われわれはせいぜい、あれやこれやがこの教義を暗示していると言えるだけである。自分はそれを遺物として伝えたのだ、そうカフカなら言ったかもしれない。だがわれわれは同じように、先駆けとして彼はそれを準備したのだ、と言うこともできる。……
 ……カフカには比喩を創り出すたぐいまれな力があった。にもかかわらず彼の力は、解釈できるもののなかで決して尽きてしまわず、むしろそのテクストの解釈に抵抗する、考えられるあらゆる予防措置を張り巡らせている。慎重に、用心深く、そしてたえず不信をいだきながら、そのなかを前進していかなければならない。そして前に挙げた寓話の解釈〔『審判』の「大聖堂」の章〕において彼が操作したような、カフカ独特の読解法のことをつねに考えていなければならない。その遺言状のことを思い出してみてもよいだろう。彼が遺稿の破棄を委ねたその文面は、少し詳細に状況を考えてみれば、掟の前の門番の返答と同じくらいその真意をはかりがたく、同じくらい慎重に吟味されるべきものなのだ。」
(ベンヤミン「一枚の子供の写真」)
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