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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: das Manの小説

「ハイデガーが分析した「世人」的構造は、単なる無差異状態ではないが、同時に始め終わりも持たない「世人」の環境であることによって、今ここに現前しているという虚構を成立させるものであった。〔森鴎外の〕『舞姫』の「余」または「われ」は、「帝国」的構造のなかに組み込まれるべき役割存在として、ともかくも、ハイデガーが言うのと近い意味での「本来性」を主張しうる人間である。かかる役割存在は、役割の計画と完成という始めと終わりをもつことができよう。〔二葉亭四迷の〕『浮雲』のお勢や文三は(そして、お政も本田昇も)、「世人」である「我々」としての「我」だという意味で、「本来性」を持つことがない。しかも、「我々」とは「他人」のことではなかったか。「我」=文三は「我々」=お勢という他者性のなかで、それを読む読者とともに「我々」となるのである。この「我々」としての「我」という構造においては、人間は男であるか女であるかを、基本的に問われる必要はないし(「das Man」と呼ばれるように、それは本質的に男性のモデルである)、そのことによって、「我」は「我々」として現前すると見做される。『浮雲』が「国民的想像力」の誕生を告げる作品であるとは、このような意味であるが、それはまた、「我々」としての国民(=国家)が、始まりも終わりもない時間のなかで現前しているという、虚構の成立をも意味している。「我々」=「世人」はいたるところで、常にすでに現前しているからである。
 だとすれば、この「世人」的構造によって規定されている近代小説は、本質的に、物語としての始まりも終わりも持ちえないということになろう。にもかかわらず、『浮雲』は書き始められたのであり、しかしまた、終わらせようとして終わらせることができなかった作品なのである。『浮雲』は登場人物たる「世人」たちに、ある役割を負わせることによって、物語としての始まりと終わりを設けようとしていると言えようが、その企図はまず、「男」と「女」という記号を、比喩的に作品中に配置することとしてある。水田宗子が言うように、「小説が物語否定にアイデンティティを主張しながら、じつは物語に救済を求め、物語から吸い取れるものを吸い取って延命を図ってきた」という「事実」は、以上のような背景のなかで考えられるべきであろうし、その場合、「この時期まで小説の寿命を引き延ばしてきたのは、明らかに女性であった」(「女性の自己語りと物語」)という事情は、すでに『浮雲』において看取できると思われる。[*5]

[*5]『存在と時間』のハイデガーが、始まりもなく終わりもない「世人」的環境の「非本来性」を超克するために、「死」への「気遣い」こそが、「おのれの最も固有に存在しうること」を指示しているとしたのは良く知られているが、「女」が「世人」的構造から逸脱した記号として小説に導入される場合、それはハイデガーの言う、「死」という固有性の近傍に位置づけられている。……」
(スガ秀実「国民的想像力のなかの「女」」)
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