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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<自然描写の起源2

「クールベは、サロンに嫌悪されながらも、人民下層の人々を大胆に絵に導入し、何のヴェールもかぶせないで物をあるがままに画布を描こうとしたことでリアリズムの祖ということになっている。だが、クールベ以前の画家がなぜ粗野な人々や物をあるがままに描こうとはしなかった(できなかった)のかを理解することは、考えられるほど容易なことではない。じっさい、労働者や農民を描いたり、裸婦の肉の塊として描くということ自体は何でもないように見える。
 絵画は上流階級のサロンで愛でられるものであり、美しいもの、気持ちのよいものでなければならないという絵に関する暗黙の了解があって、それが破りがたいものだったということはあるだろう。絵画に下層の人々を描くことがサロンに一群の労働者や農民を解き放つようなことであったということがあるだろう。だが、そういう説明で、クールベ以前の画家がなぜ人や物をあるがままに描こうとはしなかった(できなかった)のかが腑に落ちるかというとそうは思えない。
 ここには個々の画家の創意や趣向ということ以前に視覚上のパラダイム転換がなければならない。私見では、それは資本制という社会関係にかかわるように思われる。リアリズムは〈物〉への迫真を問題にするが、考えてみる必要があるのは、周囲のほとんどすべての事物が「巨大な商品の集まり」(マルクス)として現れることなくしては、リアリズムが問題にする〈物〉は絵画の対象として見えて来なかったのではないかということである。
 たとえば、中世にもジャガイモはあった。近代の画家の前にころがっているのも(使用価値としては)それと同じジャガイモであって、別に近代的な色や形をしているわけではない。中世の画家もジャガイモを見ていただろうが、それは必ずしも商品として買い求められてそこにころがっていたのではない。他方、近代の画家の前にころがっているジャガイモは、それとまったく同じジャガイモでありながら、商品という、社会関係の網のなかに組み込まれているジャガイモである。
 リアリズムが問題とした〈物〉はそのような社会的な関係性のなかにおかれて初めて見えてくる質のものだったのではないか。」
(山城むつみ『転形期の思考』)
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