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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<王の帰還

福田 「日本の天皇制も七世紀以前はよかった」、つまりは中国の諸制度を入れる前がもっともいいというのは、玄洋社の頭山満と杉山茂丸、特に杉山茂丸が明治初期の選挙の時、品川弥二郎が国家主義運動を進める際に言っているわけですよね。「聖徳太子以前の皇室というのは非常に民に近くて、共同体の護持者みたいな存在であって、それが本源だ」という議論は日本の右翼にずっとあるものだと思います。
 近代国家と天皇を対置するこの構図は、フランスのいわゆる古典主義者、王政主義者にもずっと一貫しているものです。シャルル・モーラスとか。もちろんモーラスの場合は南部、南フランスの地方分権運動が下地になっていますから、トクヴィルが言うような意味でのアンリ四世以降に出来たフランスの中央集権体制を全面的に批判する。中央集権体制というのはフランス革命後に科学的エリートの官僚組織として完成したものであるから、これを否定するために王家を持ってくる。ただ、これは有名な話ですが、モーラスは全く王様を尊敬していないわけです。「あいつはちょっと頭が悪いのじゃないか」と平気で王政派の新聞に書いている。でも結局、「中央集権的なものを解体するためには王家を持ってきた方が、合理的である、理性的である」と考える。日本の王政主義者はそこまでクリアーではないけれど、構図自体は同じだと思いますね。近代国家と王権を対置した時、つまり国家主権に対して王政主義を持ってきた時に、王というのはなんだかんだいって非近代的国家理性の根本だと考える。つまりロマンティックな国家観〔ヘーゲル的な国家、ロマン主義者が担いでいる国民主義的な国家〕を批判する体系として王というものが持ってこられるわけです。国民国家への批判としての古典主義であり合理主義であり、要するに近代的人間観の根底にある創造性に関する神話やロマンティックな文学観を全部否定するものとして。しかしこういう風に対置することが難しいのは、……協同組合主義をやっていくと、コミュニティにある種の「熱情」みたいなものがどうしても出てきてしまうわけですね。作った共同体をもたせていくために、ある種の連帯をやっていくと、ロマンティックなものとは違うサンボリックな「熱情」みたいなものが出てくる。そしてこの共同体が弾圧されたりすると、サンディカリスティックなメシア主義というか、終末主義みたいなものに落ち込んでしまうわけです。こういった形で、理性的だったものがかえってたちの悪いものに転換していくような時、ファシズムが現われる。」
(スガ秀実×福田和也×柄谷行人「アナーキズムと右翼」)
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