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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<反同一化

「カフカにあってはしかし、ジェームズ・フェニモア・クーパーがその『紅の海賊』の冒頭に置いた「文学の真の黄金時代は、作品がその印刷においては航海記のように正確で、その内容においては歩哨の当番報告のように堅実になるまでは現出しないだろう」という題辞さながらに、すべては可能なかぎり硬く、きっぱりして切り離されており、そのさまは、まるで冒険小説を見るようだ。カフカにあっては無窮のイデーのアウラなどどこにも明け染めてこないし、どこにも地平線は開けてこない。どの文章も字義どおりであり、かつ、どの文章も何かを暗示している。この二つは、象徴のように溶け合うことはなく、引き裂かれたままであり、ぽっかり開いたその深淵からは、まばゆいばかりの魅惑の光が人々の眼を射るのだ。その友人〔ブロート〕の抗議にもかかわらず、カフカの散文は、象徴よりもアレゴリーを範とすることでも、追放されたものたちの仲間である。ベンヤミンが彼の散文を寓話と定義したことには理由があった。その散文は表現によってではなく、表現の拒否によって、ある中断によって、みずからをいい表すのだ。それは、解くべき鍵が盗まれている寓話なのだ。まさにこのことを鍵にしようとする者がたとえあったとしても、その者も、カフカの作品の内実を、存在の不可解さという抽象的テーゼと取り違えてしまうことで、邪路に導かれるだけだろう。どの文章も《解釈せよ》といっている。そのくせ、どの文章もそれを許そうとしない。……解釈を強制するカフカの力が、読む者から美学的な距離を取り上げてしまう。かつてのいわゆる無関心な観察者に、カフカは絶望的なまでの緊張を強要するだけでなく、そうした観察者に跳びかかっていって、彼に《君の精神の平衡以上のものが、すなわち生か死かが、君が正しく理解できるかどうかにかかっているのだ》という暗示をあたえる。テクストと読み手のあいだの静観的な関係が根底から覆されてしまっているということは、いくつかあるカフカの前提条件のうち、そのもっとも取るに足らないものというわけではない。彼のテクストは、自分とその犠牲者のあいだに一定不変の距離など置かせず、最新式の立体映画において機関車が観客に襲いかかってくるように、語られたことが自分めがけて殺到してくるのではないかと怖れねばならないような、そんな具合に観客の情動をあおりたてることを狙いとしている。かように攻撃的なまでの肉体的な近さは、小説の登場人物と自己を同一化するというあの読者の慣習を妨げるのだ。この原理ゆえにシュルレアリスムはカフカをわが陣営の者であると主張する権利を得る。」
(アドルノ「カフカおぼえ書き」)
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