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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<運命の記号

「身体は、ある種の言語を介してみずからを理解させようと望むのだが、その言語の諸記号を意識は誤って解読する。意識は、身体を通して語りかけるものを裏返し、歪曲し、濾過するところの記号コードを作りあげる
 意識そのものは、諸衝動から伝達されるメッセージの暗号への組み替え以外のなにものでもない。解読は、それ自体として、個人が獲得したメッセージの裏返しの技法である。というのもすべては「頭部」(立った姿勢)に収斂するからだ。メッセージが解読されるのは、その「垂直の」姿勢を維持するためなのだ。もしもこの姿勢が正常なものでなく、人間に固有のものでなかったら、メッセージと呼ぶべきメッセージは存在しなかっただろう。意味-方向は直立の姿勢から出発して、上、下、前、後といった基準にしたがって形成されるのである。
 ニーチェは理性によって確立された身体の「衛生学」のために語るのではない。彼が語るのは身体の諸状態のため、意識が個人的な意識としてあるためには隠蔽せざるをえない真正なる与件としての、身体の諸状態のためなのだ。こうした観点は、純粋に「生理学的」な生の概念をはるかに超え出るものである。身体とは偶然の所産である。それは諸衝動の全体の出会いの場所にほかならず、それらの衝動は一人の人間の生の期間は個人化されているとはいうものの、ひたすらに非個人化されることを渇望しているのである。こうした諸衝動の偶然の結合からは、それらが状況にあわせて作りあげる個人とともに、眠りから段階的に遠ざかる頭脳活動という、非常にひとを欺きやすい原理が誕生する。意識はあたかもまどろみと不眠のあいだをたえず揺れているかのようであり、覚醒状態と呼ばれるものは、この両者の比較、まるで鏡の戯れのような、両者相互の反映でしかないのである。……
 身体は、意識によって捉えられている限りにおいて、衝動から切り離される。身体を横切る諸衝動、身体を偶然に形成したうえに、おなじように偶然的なやり方で身体を維持しつづける諸衝動からである──ただし、諸衝動がこうして身体の「上方の-優れた」極点に発達させた器官は、こうした偶然の、表面的な均衡維持の状態が、みずからの保存のために必要であると考える。身体の「頭脳的」活動が選別するさまざまな力は、これ以降、この活動においてしか身体を保存しない、というよりもむしろ、この活動こそが身体であるとみなすのだ。身体は、この頭脳活動のみのために身体を維持するような反射のかずかずを身にまとい、同様にして頭脳活動は、これ以降はみずからの産出物としての身体を身にまとうのである
 …………
 人間の身体は頭脳活動のおかげで直立姿勢を取ることになったのだが、その活動は最後は身体の現前を一種の自動運動に還元してしまう。それ自体としての身体はもはや自分自身の同義語ではない。それは意識の道具であり、そのかぎりにおいて、「人格」の同形異義語そのものと化すのである。頭脳の活動が低下すると、そこには身体だけが現前する。しかしそれはもはや実際には誰に属するものでもなくなっており、確かに同じ一人の人物を再構成することもできるような反射のすべてを保持してはいるものの、そこには「人格」が不在なのである。身体的なものの純粋な発現が強まれば強まるほど、それだけ「人格」の回帰は遅れるように思われる。……強い苦痛や喜びのなかで、とりわけ官能的な快楽のなかで、「人格」は一瞬消滅する。……
 …………
 しかし自我の同一性とはいったい何か。それは一見、身体の不可逆的歴史に、すなわち諸々の原因・結果の連鎖に帰属するように思われる。だが、この連鎖はたんなる見かけでしかない。身体はただ一つの相貌を形成するためにみずからを変化させるのだ。人格が固定され、「性格」が固まるのは、身体の更新能力が乏しくなるときなのだ。
 しかし身体のさまざまな年齢は、次々に継起する、それぞれに異なった状態である。そして身体が同一の身体でありつづけるのは、ある同一の自我が、多様な変化をみせる身体とみずからを混同することができ、またそうすることを望むからである。つまり身体の統一性は自我の統一性なのだ。……
 自我の同一性は、「固有の身体」の同一性とともに、人間の生の不可逆的な流れが作り出す一つの方向-意味と分かち難く結びついている。こうして意味-方向は、自我の同一性の最終形態として、その同一性のあとまで生き残るのである。だから一度限り決定的に定められた意味-方向は永遠のものなのだ
 ニーチェには宿命の最初の概念とでもいうべきものがあり、それは、自我がどうしてもそこから逃れられないようなものとしての、この不可逆的な流れのイメージをふくんでいる。そして、一見したところ、ニーチェの最初の要請をなすものも、この運命(fatum)への、したがって不可逆的なるものへの愛であるように思われる。
 ところが、一度限り決定的に定められた不可逆性の破壊として表現される〈永劫回帰〉、その体験から出発して運命の新しいヴァージョンも発達する。それがすなわち悪循環のヴァージョン。はじまりと終わりがいつも一つに混じり合い、それゆえまさに目標も方向も廃棄されてしまうようなヴァージョンである。
 これ以降、考慮の対象となるのはもはや自我の所有物としての身体ではなく、諸々の衝動の場所としての、それらの遭遇の場所としての身体である。衝動の生産物としての身体は偶然的なものとなる。それは不可逆的でもなければ、可逆的でもない。というのも、その身体は、衝動の歴史以外の歴史というものを持たないからだ。」
(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)
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