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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<安全黙示録2

「ハイデッガーの技術論の要諦は、人間の技術の本質は「せき-立て〔Ge-stell〕」にあり、「主体性」や「全体性」は回復できない、というところにある。『技術論』において、ハイデッガーはすでに核兵器と原発に言及しており、「単に技術的なるものはすべて、決して技術の本質までは達しない。それらは技術の本性の前提をすら認識することはできない」と言っていた。……
 …………
 ハイデッガーの技術論が本書にとっても示唆的な理由の一つは、今日にいたるまでの幾度かの反原発運動の高揚が、終末論と「安全」イデオロギーに「せき-立て」られたもののように見えるからだ。それは、ハイデッガー的に言えば、人間にとっては克服しがたい技術の「本質」の反映に過ぎないのである。
 津村〔喬〕の要諦は、「原発とはそれ自体が戦争」であるというところにある。クラウゼヴィッツを転倒して、津村は、「核による抑止力のあるところでは政治が戦争の延長になる」と主張する。この場合、「戦争」とは、「監視戦争=情報戦争」としてあらわれる。津村が「監視」と言う場合、たとえば反原発地域闘争のなかで、反原発派の住民が「監視」=「管理」されるという事態が、最初に念頭に置かれている。
 そのような体制維持のためのテクノロジーが、「一九六八年」以降の「過激派狩り」の過程を経るなかで前面化したというのだ。「現実には、戦争という行為の大部分を占めるのは『監視戦争』である」(津村喬)からだ。そこでは、「体制の安全保障という至上命題のために原発の『安全性』についてのウンザリする議論」、広告等によるメディアの「安全」プロパガンダが、繰り返される。
 「安全」をめぐる議論は、「福島」以降において、再び、われわれがウンザリするほど見聞きしているものに他ならない。……一方、その安全性を疑い、真の安全を求める「国民的」な声も後を断たない。
 しかし、それらは「体制の安全保障」を求めているという意味で相互補完的なものである。安全性を規定しようとする「『専門的・科学的』検討とはそれ自体が広告でしかなく、情報ファッショに加担することでしかない」。終末論の脅迫(=「せき-立て」)に屈しているという意味で、安全と終末は表裏の関係にある。
 「ファシズム」という呼称は否定するにしても、ミシェル・フーコーは、「安全」によって領土と人口を「管理」することを「安全システム」と呼び、その発端を一八世紀後半に置いた(フーコー『安全・領土・人口』)。安全システムによって保障されるのは、「自由」にほかならない。
 ここにおいて、「自由」もまた、統治のテクノロジーとなる。言うまでもなく、それは「新自由主義」として表現されている(フーコー『生政治の誕生』)。そこにおいては、「派遣」を典型として、フリーターも誰もかも、「起業家」=「企業家」として表象され、その「労働」は──労働ではなく──企業家による自由な「活動」と見なされる。
 コレージュ・ド・フランス講義でフーコーが「安全」という名の統治テクノロジーを論じたのは、津村の原発問題を介した安全システム批判がなされたのとほぼ同時期のことである。
 …………
 では、原発問題とは何か。津村は次のように言う。

 原発のエネルギーとは、原発をつくり続けることにしか使われないという自閉的なシステムで、体制の維持だけが自己目的化される今日の末期資本主義を象徴するものといえよう。原発問題とはエネルギーの問題でもなければましてや“安全性”の問題でもない。原発を作り続けるという、戦争やアポロ計画に匹敵する浪費の中で体制の延命、再編をやりとげるという問題なのだ。(「帝国主義政治戦略の再編──日米原子力決戦の中で」一九七六年)
 資本主義〔新自由主義〕批判としての反原発。この視点こそ、今日もっとも必要なものにほかならない。」
(スガ秀実『反原発の思想史』)
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