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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<人間的に考えるの止めません?

「思考とは、外から捉えれば、環境とのギャップに際した一つないし集合的な知覚行為体が、潜在的な諸可能性を背景としつつ、特定の形を選択的に実現していく過程である。たとえば何も描かれていない画布は、描く人の前に広がる未規定のギャップ(=問い)であり、他でもありえた潜在的な諸可能性から、特定の布置が実現していく過程自体が思考である。
 この定義は以下のことを含意している。
 第一に、思考は非意識的・非言語的でありうる。たとえば山を登るとき。どこに足を置き、どこを手でつかむか、複数の可能性を背景としながら特定の動きを実現することで環境とのギャップを越えていく身体の姿勢は、それ自体が、登山という問題を局所的に解き続ける思考である。そこに意識的な思考は必ずしも必要ない。
 第二に、思考は集合的でありうる。複数人が集まって考えるときだけではない。思考する個人はしばしば、外的事物とともに集合的な思考体を構成する(例:複雑な計算をするときの紙と鉛筆)。思考する人はまた、内的にも集合的だ。たとえば物をつかむとき、手の腱の複雑なネットワークは、意識的思考とは独立に適切な形態を生成し続ける。それはサブパーソナルな(個人というスケール以下で働く)思考体だ。
 第三に、思考体は非人間(人間以外のもの)でありうる。変動する環境に応じて生長する植物は、他でもありえた可能性を背景としつつ特定の形を実現していく点で、本書の観点からは思考していると言われうる。
 …………
 「思考の集合性」という、第二の含意をさらに掘り下げよう。……意識を欠く物体もまた「知覚」する。〔フランシス・ベイコン〕の言うこのような知覚(=影響受容)を、ホワイトヘッドは「抱握(prehension)」という概念で呼び換えている。物体は互いを知覚=抱握する。……
 集合的思考は、内から捉えれば、物的・心的な抱握過程による記号の連鎖からできていると考えることができる。ここで「記号」とは、何らかの仕方で他の形を部分的に変換して伝える形のことだ。抱握する形は抱握される形の記号となる。絵具のにじみ(抱握する形)は、画布の繊維構造(抱握される形)を部分的にうつす記号である。生物の知覚(抱握する形)は、外的環境(抱握される形)を部分的に抽出して変換する記号である。……生物の関わらない事物連鎖──風に吹かれて舞う砂、水流に削られる岩など──もまた、ある事物のパターンが他の事物のパターンに抱握され部分的に変換されている点で、物的な記号過程として考えることができる。生物の心的記号過程はそれら物的記号過程と連続し、分かちがたく絡まりあっている。」
(平倉圭「布置を解く」)
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