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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<人間的に考えるの止めません?2

「これまでの文脈を踏まえて言えば、多くの作品の言葉が、現代の傾向としてある、記号の有機的美学化に順応しているのに対して、大西も中上も、それぞれの仕方で、その美学化に抗していることが触知されるのであって、それと似た抵抗感がともかくも伝わってくるのは、他には、わずかに、野坂昭如の「見えない女房」(『文藝』)と三枝和子の「ジグソーパズルの雨」(『文藝』)のみであった。
 話者の「私」にとって「透明人間」の如く「見えない、聞こえない妻」、しかし「手足を切断した人が、失われた部分に痛みかゆみを覚える如く、妻のあらましが伝わ」るという状態は、まあ夫婦関係の齟齬の隠喩に過ぎないと言えば言えるが、それをとにもかくにも言葉によって怪奇小説に仕立ててしまうのは、さすがに野坂昭如だと思う。……だが、話者「私」の語る言葉が、妻によって侵蝕され凌駕されるという怪奇を垣間見たと思った瞬間、「ふと、ふりむいた、妻の姿はもとよりない。/妻に、私の姿は見えているのだろうか」と、オルフェウス-エウリディケーの神話(あるいは、イザナギ-イザナミの神話)もどきでこの作品は終わってしまい、夫婦間の心理的齟齬を象徴的に描いた家庭小説の「文学」的枠組みに収まってしまう。
 また、病んで病院の個室に閉じ込められている「彼」が組み立てているジグソーパズルの図柄が、病室の窓から「彼」のながめる風景に溶け込んでいくという非有機的な不条理を、言葉によって成立させようとする三枝和子の「ジグソーパズルの雨」にしても、「彼」一人に内的に焦点化する話者(非人称)が、カメラ・アイのごとき非有機的かつ透明な視点を維持しようとしていながら、「いまの彼にとってどんな言葉も慰めにはならないのだけれど」と話者自身直接に語ってしまうように、その視座を維持できなくなってしまい、この作品をちょっと風変わりな心理小説に過ぎぬものへと送り返してしまう。野坂にしろ三枝にしろ、言葉が人間的な心理に同調してしまう時、そこにある種の有機的美学化が始まり、「文学」批判としての小説的エクリチュールが失効してしまうのである。」
(スガ秀実「有機化=全体化の幻」)
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