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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<死と等価交換

「商人による交換行為では、決して等価交換は前提にされない。あるいは、等価交換自体が虚構的な概念である。そもそも、等価交換であるなら、そこに利潤の発生する余地がない。マルクスが言うように、商品交換は相互に質的差異を持った共同体と共同体の間でおこなわれることによって、利潤が生ずる。共同体aにおいて生産された商品Aと、共同体bにおいて生産された商品Bとの交換は、共同体aにとって商品Bが商品Aよりも価値が高いと見做され、共同体bにとって商品Aが商品Bよりも価値が高いと見做された時に交換が成立する。共同体aにとっても、共同体bにとっても、不等価交換によって利潤がもたらされたと認識されているわけである。そもそも等価交換を可能にするコードが存在しないのだ。……交換においては相互ともに、高く売って安く買うという不等価交換による利潤を目指しているのだから、常に商品が売れないという危険がつきまとう。言うところの「命がけの飛躍」が必要な所以である。柄谷行人も常に注意を喚起するように、等価交換とは「命がけの飛躍」の後に──交換された後に──事後的に見出されるのである。
 しかし、少なくとも「売る立場」の者が、等価交換をしていると了解しうる商品がただ一つ存在する。いわゆる労働力商品がそれである。商品化されていない労働力には、「命がけの飛躍」は存在しない。彼らは概ね自分の労働によって物を生産し、それを自分自身で消費して生きているので、商品世界とは無縁だからである。ところが、労働力が商品化された時、労働者はたちまち労働力を「売る立場」となり、「命がけの飛躍」を強いられることになるはずである。われわれはすでに、「疚しい良心」として発現するところの、「命がけの飛躍」による「死の脅威」を癒すものとして、労働価値説を把握してきた。ところで、労働価値説が「死の脅威」から逃れさせてくれるものとすれば、すなわち、「命がけの飛躍」を回避しうるとすれば、労働によって形成された価値を実現してくれる、等価交換のコードが全般的に存在することによってであろう。等価交換のコードの存在が前提とされて、初めて労働価値説が登場しうるのだ。それを可能にしてくれるのが、労働力商品である。等価交換というのは、本当は労働力の売買においてのみ可能と見做されうるものに過ぎない。これは逆説でも何でもない、事実である。労働力商品は、いかなる貨幣価値で買われようと、ある水準をこえれば、「売る立場」の者(=労働者)によって、常に等価交換だとみなされうるのである。どんなに高かろうと、あるいは逆に安かろうと、労働力商品が必要な「生活の資」と交換されるなら、それは等価交換となるのだ。」
(スガ秀実『小説的強度』)
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